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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


2月号 2012年02月29日更新

【今月の歴史人物】
知っていますか?「名奉行」
大岡忠相が町奉行となる
享保2(1717).2.3

今月号のイラスト
大岡忠相
◆私が不正を忠相。
(C) イラストレーション:結木さくら


2月の主な誕生人物
01日 児島惟謙/裁判官
02日 菅茶山/江戸時代の儒者
02日 ジョイス/小説家
03日 メンデルスゾーン/作曲家
03日 河竹黙阿弥/歌舞伎作者
03日 西周/思想家
04日 リンドバーグ/飛行家
05日 若槻礼次郎/政治家
06日 アン女王/イギリス女王
07日 モア/思想家
08日 ヴェルヌ/小説家
09日 原敬/政治家
10日 新井白石/江戸時代の政治家、儒者
11日 エジソン/発明家
11日 小林古径/画家
11日 折田信夫/歌人、民俗学者
12日 ダーウィン/博物学者
12日 リンカーン/政治家
13日 渋沢栄一/実業家
13日 ショックレー/物理学者
14日 豊田佐吉/実業家、発明家
14日 広田弘
/政治家
14日 中川一政/画家
15日 井伏鱒二/小説家
16日 日蓮/鎌倉時代の僧
16日 荻生徂
/儒者
16日 大隈重信/政治家
17日 シーボルト/医者、博物学者
17日 島崎藤村/詩人、小説家
18日 フェノロサ/美術研究家
18日 マッハ/物理学者
19日 コペルニクス/天文学者
20日 志賀直哉/小説家
20日 ボルツマン/物理学者
21日 ザビニー/法学者
22日 ショーペンハウエル/哲学者
22日 ヘルツ/物理学者
22日 高浜虚子/俳人
23日 ヘンデル/音楽家
23日 本多光太郎/物理学者
23日 ヤスパース/哲学者
24日 パークス/外交官
24日 グリム(ウィルヘルム)/言語学者、童話集成家
24日 陸象山/儒者
25日 ルノアール/画家
25日 松方正義/政治家
26日 ユーゴー/小説家、劇作家
26日 与謝野鉄幹/歌人、詩人
27日 ロングフェロー/詩人
27日 シュタイナー/哲学者
28日 モンテーニュ/思想家
29日 ロッシーニ/作曲家

大岡越前守こと、大岡忠相(おおおか・ただすけ)。最近ではテレビでの時代劇放映もめっきり減り、この名を耳にする機会も少なくなりました。若い世代では、忠相のことを全く知らない方もおられるかも知れません。
しかし、少し前まで、名奉行・大岡越前守は誰もが知る庶民のヒーローでした。そんな大岡忠相が江戸町奉行となったのが、享保2(1717)年の2月3日のことです。
今月は、名奉行として日本人に親しまれてきた大岡忠相の生涯をご紹介します。

旗本の子
大岡忠相は、旗本・大岡忠高の四男として延宝5(1677)年に江戸で誕生しました。
大岡氏は家康の時代にはすでに徳川(松平)家に仕えた代々の家臣でした。忠相の生まれた頃には本家といくつかの分家に分かれており、忠相の実家はその分家の一つです。
9歳の頃、忠相は他家に養子に入りました。ただし、他家と言っても親戚の家で、家名も同じ大岡。要するに分家に生まれた子が別の分家に貰われたということで、全く縁もゆかりもない家に放り出されたわけではありません。ちなみに、忠相の実家も、貰われた先も、ともに1500〜2000石クラスの旗本。上を見ればきりがないですが、まず裕福な方の家柄と言ってよいでしょう。
忠相が10代の時期、一族から流罪になる者が出たり、刃傷沙汰を起こす者が出たりと、大岡氏はトラブル続きだったようです。しかし、そんな時期を乗り越えて、忠相は養子先の家督を継承します。23の年でした。その後は幕府の役人として順調に出世してゆき、正徳2(1712)年、35の年には山田奉行に就任します。
山田奉行とはあまり聞き慣れないかも知れませんが、別名伊勢奉行ともいい、伊勢神宮や周辺地域の管理・支配を担当するものです。役目のランクとしては忠相の家格と釣り合うものですが、就任年齢が若く、忠相の有能さを示しているものと考えてよいでしょう。
山田奉行時代の忠相には有名な話があります。「自らの支配域と隣の紀州の支配域の境界争いを見事に裁いた」「この時の紀州藩主が徳川吉宗であり、忠相はこれによって吉宗に認められた」などというものですが、これらはおそらく作り話で、どうやら「名奉行・大岡越前守」像が確立する過程で生まれてきたようです。
その後、忠相は普請奉行を経て、江戸南町奉行に就任します。これが享保2(1717)年の2月3日のことです。この時に「越前守」も名乗るようになり、ここに馴染み深い「町奉行・大岡越前守」が誕生したわけです。

町奉行として活躍、そして大名へ
ところで、町奉行とはどういう役目なのでしょう。時代劇が好きな方であれば、犯罪者をお白州に引き出して取り調べるシーンを思い浮かべるでしょうか。これは今で言う裁判官ということですが、実は町奉行の役目それだけではなく、もっと広いのです。町奉行には、今挙げた裁判官のほか、たとえば江戸の治安維持を担う警察のリーダーとしての役目もありました。それから、町人の管理や商業の管理、防災対策といった仕事も町奉行が担当します。要するに、江戸の町を治める仕事を一手に引き受けるのが町奉行であり、多忙で、責任も重い激務でした。
町奉行に就任した時、忠相は40歳です。これは町奉行就任年齢としては抜群に若く、かなりのスピード出世だったと言えます。また、忠相が町奉行になった年は、あの徳川吉宗が8代将軍になった翌年にあたります。吉宗は日本史でいう「享保の改革」を進めた将軍。町奉行になった忠相は、同時に吉宗の政治改革に参加することにもなります。
改革における忠相の働きはめざましく、将軍・吉宗の指揮のもと、次から次へと政策を実行してゆきました。ざっと挙げるだけでも、貧しいものに対する施療所「小石川養生所」の設置、町火消しの整備、株仲間の公認や物価対策と、多種多様な政策を実行しています。
部下として多様な人材を抱えていたことも忠相の特徴です。中でも有名なのはサツマイモ栽培で後世に名を残した青木昆陽。彼は忠相のサポートによって世に出た人物です。
さて、忠相の町奉行時代はおよそ20年も続きました。その後は寺や神社を司る寺社奉行となって引き続いて改革に参与。この寺社奉行は原則として譜代の大名が就任するポストであり、この時点で役目の重さが忠相の家格を大幅に超えたということになります。そして71歳の年には、正式に1万石取りの大名の座に上り詰めました。2000石クラスの旗本が大名になる。これは、子が親の役目や石高を代々継承してゆくことが基本だった江戸時代においては異例のことで、忠相の非常な有能さ、実績を端的に示しています。
寛延4(1751)年、徳川吉宗がこの世を去りました。忠相はこの時もまだ寺社奉行をつとめており、葬儀の担当者の一人にもなっています。しかしながら、この時にはかなり身体が弱っていたらしく、まもなく寺社奉行を辞任。その1か月後、宝暦元(1751)年の12月19日にこの世を去りました。吉宗死去からわずか半年後のことで、文字通り、吉宗のあとを追うような死でした。

「名奉行・大岡越前守」
町奉行時代の忠相の働き、ことに裁判関係の逸話は当時から後世にかけてまとめられ「大岡政談」として広く知られました。それら「名奉行・大岡越前守」の物語は講談や落語、歌舞伎になり、小説になり、やがて映画やテレビ時代劇にもなりました。
しかし「大岡政談」の内容のほとんどは、創作や別のところから引っ張ってきた話であり、実際の忠相とは関係がないことがわかっています。本当の大岡忠相とは、庶民の味方の名奉行ではなく、徳川吉宗の改革を陰になり日なたになりして支えた有能な実務官僚と表現すべき人物でした。つまり、「名奉行・大岡越前守」とは、大岡忠相という器の中に、政治家はかくあるべしという庶民の願いをいっぱいに満たして誕生した存在、言わば「幻のヒーロー」だったのです。
と言って、「名奉行・大岡越前守」が完全な虚像だと切って捨てるものでもありません。庶民の願いを吸収するだけの実績や能力を現実に見せたからこそ、「名奉行・大岡越前守」が生まれたに違いないからです。大岡忠相がもし取るに足らない存在だったとすれば、そんな「幻」すら生まれなかったことでしょう。
しかしながら、冒頭でふれたように最近では「大岡越前守」の名を聞くこともめっきり少なくなってしまいました。少々寂しい気もしますが、何しろ200年以上もヒーローだった存在です。もしかすると、またいつの日か光を放ち始めることもあるかも知れません。

 


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