歴誕ホームへ歴誕カレンダーとはWEB歴誕カレンダー歴誕通販れきたんQ&A個人情報について通信販売表示
れきたん歴史人物伝歴誕制作ばなしれきたん壁紙リンクお問い合わせオーダーメイドカートの中身を見る

    

れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


3月号 2012年03月30日更新

【今月の歴史人物】
波乱の生涯、水戸の改革者
藤田東湖
文化3(1806).3.16〜安政2(1855).10.2

今月号のイラスト
藤田東湖
◆政治的決断を問うこ
(C) イラストレーション:結木さくら


3月の主な誕生人物
01日 芥川龍之介/小説家
01日 和辻哲郎/哲学者
02日 米内光政/軍人
03日 ベル/発明家
03日 カントール/数学者
03日 正宗白鳥/作家、評論家
04日 賀茂真淵/江戸時代の国学者
04日 有島武郎/小説家
04日 松岡洋右/外交官
05日 メルカトル/地図学者
04日 松岡洋右/外交官
05日 メルカトル/地図学者
05日 川上眉山/小説家
05日 ノリス/小説家
06日 ミケランジェロ/画家、彫刻家、建築家
06日 フラウンホーファー/物理学者
07日 中江藤樹/江戸時代の儒者
07日 バーバンク/園芸家
07日 ラベル/作曲家
08日 平賀譲/造船学者
09日 ミラボー/政治家
09日 梅原龍三郎/画家
10日 マルピーギ/医学者
10日 サラサーテ/バイオリニスト
11日 橋本左内/幕末の学者、思想家
12日 キルヒホッフ/物理学者
13日 高村光太郎/詩人、彫刻家
13日 ヘボン/宣教師
14日 アインシュタイン/物理学者
14日 ヴィットリオ・エマヌエーレ2世/イタリア王
15日 ベーリング/医学者
16日 オーム/物理学者
16日 藤田東湖/儒者
16日 ゴーリキー/小説家
17日 ダイムラー/機械技術者
17日 横光利一/小説家
18日 ラ・ファイエット夫人/小説家
18日 ディーゼル/発明家
19日 リヴィングストン/探検家、宣教師
19日 後藤象二郎/政治家
20日 前原一誠/志士、政治家
21日 バッハ(J.S.)/作曲家
21日 フーリエ/物理学者、数学者
22日 ファンダイク/画家
22日 ウィルヘルム1世/独皇帝
23日 マルタン・デュ・ガール/小説家
24日 モリス/工芸家、詩人
25日 樋口一葉/小説家
25日 バルトーク/作曲家
26日 今東光/小説家
26日 エンゲル/統計学者
26日 李承晩/政治家
27日 レントゲン/物理学者
28日 コメニウス/神学者、教育学者
29日 平野国臣/幕末の志士
30日 ゴヤ/画家
30日 ヴェルレーヌ/詩人
30日 ゴッホ/画家
30日 野坂參三/政治家
31日 デカルト/哲学者、数学者
31日 ハイドン/作曲家
31日 朝永振一郎/物理学者

今月ご紹介するのは、江戸時代後期の思想家にして政治家である藤田東湖です。東湖が主に活動したのは江戸時代の後期。比較的安定した時代ではありましたが、幕末の動乱期を先取っている側面もあり、東湖もなかなかに波乱の人生を送ったようです。

父・藤田幽谷
藤田東湖は文化3(1806)年3月16日、水戸(現在の茨城県)において生まれました。東湖というのは後年の号で、名は彪(たけき)といい、他にもいくつかの名がありましたが、この記事では東湖で通すことにします。
東湖の父は藤田幽谷といい、やはり有名な思想家です。その幽谷の父(東湖の祖父)は水戸城下町の古着屋でした。つまり藤田家とは町人の家で、幽谷ももともとは町人だったというわけです。しかし、幽谷に学才のあったため、『大日本史』編纂を行う施設「彰考館(※)」へと勤めることがかない、やがて正式に水戸藩士(武士)として取り立てられたのです。
さて、そういう経緯を経て武士となった幽谷は、『大日本史』事業についても、さらには水戸の藩政についても改革派としてかなり積極的に発言しました。しかし、若輩であり、しかも元町人である幽谷への風当たりは強く、相当不利な立場に追いやられるということも起きました。それでも、そのまっすぐな姿勢と確かな見識がやがて認められ、改革派の中心人物として藩政に重きを成すようになります。東湖は、こんな人物の息子として誕生したのです。

※彰考館…『大日本史』編纂事業を行う中心施設です。『大日本史』は水戸藩が江戸初期から編纂を進めていた歴史書。ちなみに、編纂に着手したのは「水戸黄門」としても親しまれている2代水戸藩主・徳川光圀です。

学者の子
学問で身を立てた幽谷の息子だけに、東湖も当たり前のように学問を仕込まれて育ちます。5歳ごろには儒学の書物である『孝経』を幽谷から教わり始め、その後もさまざまな指導を受けました。13歳のころには父に連れられて江戸へと遊学もし、さらにはそれと同時に剣術の修行も行っています。ちなみに、この時に入門した道場を撃剣館といい、東湖はこの後もたびたびここに通って剣の腕を磨くのです。撃剣館の同門には幕末の剣術家として名高い斎藤弥九郎などがおり、東湖の剣術修行が相当の本格派だったことがわかります。
若き日の東湖の様子を伝えるエピソードがあります。東湖が18歳の頃、水戸藩に連なる地である大津浜(今の北茨城)にイギリス人が上陸するという事件が発生しました。周知の通り、当時は通商・外交を国策で制限(いわゆる鎖国政策)していた時代です。幽谷はかねて外国勢力の日本に対する領土的野心を警戒しており、今度のイギリス人もそのような魂胆をもって日本にやってきている、その面からこの事件には厳しく対処すべきと考えていました。ところが、水戸藩、さらには事件に対処する最終責任者である幕府は、取調べを済ませると、イギリス人をそのままもとの船に戻そうとします。これは事なかれ主義の、いかにも緩い対応でした。少なくとも幽谷の目にはそのように映りました。
そこで幽谷は、息子・東湖にこのイギリス人らの暗殺を命令します。事なかれで「侵略者」を不問にするのは日本のためにならぬという考えからですが、いかにも過激です。しかしながら、この計画は実行前にイギリス人が船に戻されたために果たされませんでした。当の東湖もこの計画に一命をかける覚悟であったため、非常に落胆・愕然としたといいます。東湖がただ学問を行うだけでなく剣の腕前にも相当自信のあったこと、父の思想や真っ直ぐな性質を受け継いでいたことなどがわかります。

改革に邁進、そして処分
イギリス人上陸事件があってしばらく後、父・幽谷が病死しました。幽谷は水戸藩改革派の重要人物であったため、家督を継いだ東湖が、父の門人らとともにその役割も担ってゆくことになります。
さて、このころ、水戸藩に持ち上がったのが後継藩主問題です。当時の水戸藩主は徳川斉脩(なりのぶ)といいましたが、病弱で子もなく、次の藩主を誰にするかが問題になっていたのです。旧来の重臣を中心とする守旧派(門閥派)は将軍家に近い人物を推していましたが、東湖属する改革派は斉脩の弟である敬三郎を推していました。両派の対立は深まりましたが、この争いは改革派の勝利に終わり、文政12(1829)年、敬三郎が水戸藩主となります。これが、幕末史にも深くその名を刻むことになる徳川斉昭です。
藩主となった斉昭は水戸藩の政治改革に着手し、自身の擁立に力を尽くした改革派の面々を用いることになります。中でも東湖は斉昭の腹心の部下としてその力を発揮してゆくのです。
斉昭の改革政治で行われたことはさまざまで、代表的なものでは検地や藩校建設、軍事訓練などがあります。海外の脅威を明確に認識し、その対応を訴えたのも斉昭政治の特徴です。これらの政策はこの時期の地方政治のひとつの雛形ともなり、全国に影響を及ぼしたともされます。なお、この改革政治の陰には、斉昭の部下である東湖ら改革派の面々の尽力があったことは言うまでもありません。
しかし、政治改革とはいつの時代も摩擦を生みます。この時ももちろんそうで、東湖らの改革派は、藩内の守旧派と激しく対立することになるのです。はじめ斉昭は苦心して双方のバランスを取っていたのですが、改革政治が行われて10年も経つ頃には改革派が藩政をほぼ掌握するに至りました。
しかしながら、話はこれで終わりません。突如、斉昭が失脚するからです。理由はまさに、守旧派の反撃でした。守旧派が幕府中枢と結び、斉昭の改革政治の内容を責め立て、斉昭の謹慎へと持ち込んだのです。これに伴い、斉昭の部下である改革派の面々も力を失い、東湖も蟄居処分となりました。東湖が38歳の時のことです。

蟄居と復帰
蟄居というのは単に屋敷に閉じこもっているだけ、と捉えられがちですが、れっきとした刑罰です。屋敷の門や窓は封じられ、人の出入りは必要最低限のものに制限されます。本人の行動ももちろん厳しく制限され、屋敷どころか部屋から出ることもままならなかったといいます。もちろん監視も付きます。処分を受けた者は、かなり辛い日々を送ったことでしょう。むろん、東湖もです。
しかし東湖が偉いのは、これでへこたれなかったことです。守旧派をないがしろにし、強引にことを進めた自らが至らなかったと反省もし、また『常陸帯』『回天詩史』といった、後に幕末の志士たちに愛読されることになる書物を著したりもしたのです。
東湖が完全に政界復帰したのは嘉永6(1853)年のことです。処分を受けてから数えると、およそ9年も経っていました。実際にはその間に斉昭の復権はかなっており、東湖の罪も徐々に減じられ、ずいぶん自由が回復していたのですが、ともかく完全な復帰までにはそれだけかかったのです。
復帰のきっかけはあの歴史的大事件「ペリー来航」でした。アメリカからやってきたペリーが幕府に開国を要求する。この未曾有の事件を前に、幕府中枢部は藩政改革に実績のある斉昭の幕政参与を望みました。そしてその斉昭は東湖ら腹心の力を欲し、かれらを江戸に呼び出したのです。江戸入りした東湖は海岸防禦御用係という役目を与えられ、これによって東湖は完全に政界へ復帰したというわけです。

突然の死
復帰した東湖は、外国勢力への対応という大仕事を前に、斉昭を助け、忙しい日々を送ることになります。また、仕事関係のみならず、思想家としての東湖を来訪する人物も後を断たず、その対応にも追われました。この頃東湖が面会した有名人物には、幕府関係者では川路聖謨や江川英龍などがあり、学者では佐久間象山や梅田雲浜などがあります。
ところで、面会者の中でひときわ大物がいます。それは誰あろう、かの幕末三傑の一人、西郷隆盛です。当時の薩摩藩主・島津斉彬にしたがって江戸入りしていた西郷は、東湖の名声を慕って面会にやってきました。この時西郷は26歳の若者、東湖は48歳。容貌魁偉で鳴る西郷も、東湖の前では小さくなって教えを乞うたといいます。
しかし、このような充実した日々は長くは続きませんでした。安政2(1855)年、「安政の大地震」が発生し、崩れてきた天井の梁に潰されて東湖は亡くなったのです。あまりにも唐突な死。49歳でした。

藩政改革に力を尽くし、処罰され、許された直後に災害でこの世を去る。波乱の生涯を送った東湖でしたが、国防も視野に入れながら水戸藩という大藩の改革に邁進してきた実績は揺るぎなく、かれの思想はその後続々と現れてくる幕末の志士たちに大きな影響を与えました。
東湖亡き後の水戸藩政には詳しくは触れません。ただ、あまり穏やかな経路を辿ったとは言えないでしょう。その理由が、東湖が突然いなくなったせいなのか、時代が招いたどうしようもない推移だったのかは分かりません。あるいはその両方だったのでしょうか。どちらにしても、幕末の東湖をもっと見てみたかったと思えてなりません。

 


ホーム歴誕カレンダーとはWeb歴誕カレンダー歴誕通販れきたんQ&A個人情報について通信販売表示

取扱店・プレスリリースれきたん歴史人物伝れきたん編集室れきたん壁紙リンクお問い合せ


Copyright (C) 2012 有限会社 秋山ワークス