延暦21(802)年の4月、東北地方において蝦夷(えみし)らが朝廷勢力に降伏しました。その指導者の名を阿弖流為(あてるい)といいます。一方、朝廷側の責任者は、征夷大将軍・坂上田村麻呂。今回は、蝦夷と朝廷、そして田村麻呂と阿弖流為にスポットを当てたいと思います。
田村麻呂誕生
坂上田村麻呂が坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)の三男として誕生したのは天平宝字2(758)年のことと考えられています。坂上氏というのは、後漢皇帝の子孫・阿知使主(あちのおみ)を祖と称した一族です。ただ、この阿知使主がどういう人物だったかははっきりしません。よって、この由来が正しいかどうかもよく分かりません。とは言え、坂上氏が渡来系の流れを汲んでいることは間違いないと考えてよいようです。
坂上氏は武門の一族として知られていました。そんな家に生まれた田村麻呂が、史上にその名を現してくるのは20代のことです。しかしながら、その頃、田村麻呂が具体的にどのような働きを見せたかということは記録に残っていません。朝廷に仕え、どうやら順調に昇進していたらしいことが分かるだけです。
大きな変化があらわれるのは33歳の時のこと。田村麻呂が、蝦夷討伐軍の副将の一人に任じられたのです。
蝦夷とは何者か
ここで触れておきたいのが、ここまでにも何度が使った「蝦夷」という言葉です。古代、東北地方や北海道には朝廷に従わない人びとが多く住んでいました。かれらのことを、当時の朝廷は「蝦夷」と呼んだのです。
蝦夷の正体が何だったかということについては、古代史における未解決問題の一つです。アイヌ人だったという説も、いわゆる日本人、日本民族だったという説もあります。また、それらが入り混じって構成されていたとも、時期によって様子が違い、ある時期まではアイヌ人中心だったとも言われます。
生活様式もさまざまだったようです。狩猟中心の生活を送っていた集団も、農耕中心の生活を送っていた集団もあったとされます。朝廷との関係にしても、完全に背を向けた集団もあれば、関わりを持つ集団もありました。
蝦夷の中には朝廷に仕えた者もいました。田村麻呂の父・苅田麻呂は「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」において功を上げて、当時の位階で5階級という猛烈な昇進を遂げたことがあります。その時、同じ功績によって昇進した人物がもう一人おり、その名は道嶋嶋足(みちしまのしまたり)といいました。この道嶋嶋足は蝦夷系の人物だったとされます。ちなみにこの時の嶋足は11階級という空前絶後の昇進を遂げています。
話がそれました。ともかく蝦夷とは非常にさまざまな側面を持っていた集団らしく、その正体についての確かな説も未だにないということです。はっきりしているのは、当時の東北には朝廷に従わない人々がおり、朝廷がかれらのことを蝦夷と呼んだことくらいでしょう。とりあえずここではそれくらいに話をとどめ、先に進めることにしましょう。
蝦夷たちの抵抗
さて、そんな蝦夷たちの住む東北地方を征服することは、当時の朝廷にとっての大きな課題でした。古くからその策は進められており、城柵(支配拠点)の建設、移民開拓などの手法がとられました。時には武力による征討も行われましたが、ともかく8世紀のはじめ頃までの東北統治策は比較的順調に進んだといってよいでしょう。
しかし、そんな状況が変化を見せ始めました。朝廷に抗う蝦夷が増え、東北に不穏の空気が漂い始めたのです。その結果、8世紀後半にはとうとう朝廷による本格的で大規模な蝦夷の征討(征夷)がスタートすることになるわけです。
東北地方の乱れの最も有名な一例として、宝亀11(780)年に起こった大事件のことをご紹介しておきましょう。伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)という官僚の反乱です。呰麻呂は蝦夷の軍勢を率いて上司の紀広純(きのひろずみ)らを殺害し、多賀城という東北の重要拠点を陥落させてしまったのです。なお、呰麻呂は蝦夷系の官僚でした。
蝦夷征討に話を戻します。延暦8(789)年に行われた朝廷軍と蝦夷軍とのは大きなものでした。紀古佐美(きのこさみ)という人物を指揮者とし、かなりの大兵力が投入されました。古佐美はこの中から兵を割いて渡河作戦を展開しました。しかし、蝦夷軍は朝廷軍を巧みに誘い、挟み撃ちの形を作って大潰滅させることに成功、朝廷軍は大敗北を喫しました。朝廷軍の被害は戦死者25人、溺死者1036人、負傷者245人、裸で逃げ帰ってきた者1257人という記録が残っています。当時の戦争の傾向から考えると、惨憺たるものと言っても足りないほどでしょう(一方朝廷側も、首級89を挙げ、約800戸を燃やしたとあり、蝦夷側もけっして小さくはない被害が出たことがうかがわれます)。この大勝利を演出した指揮官こそが、阿弖流為でした。
田村麻呂と阿弖流為
先に述べた坂上田村麻呂が副将をつとめる征討軍は、そんな大敗の後に編成されたものでした。この征討軍のことは、上々の戦果をあげたことは伝わっていますが、戦闘の詳細についてはよく分かりません。あるいは阿弖流為の軍と激烈な戦闘を行ったのかも知れませんが、何とも言えません。しかし、この討伐において田村麻呂がよく働いたことは間違いないでしょう。なぜなら延暦15(796)年、田村麻呂は東北統治の責任者に任命され、さらにその翌年には蝦夷征討の責任者「征夷大将軍」にもなっているからです。
東北地方における政治・軍事の両面の責任者となった田村麻呂は、まず統治システムの整備や移民政策などに力を入れました。その後、延暦20(801)年に実力による行動、つまり蝦夷征討戦が行われます。
この時の征討についても細かいことは分かりません。しかし成功したのは確かで、田村麻呂はその旨朝廷に報告しています。そして、この勝利を機に田村麻呂は蝦夷側にとっての重要拠点であった胆沢の地に城を築き始めるのです。これが日本史上に有名な胆沢城です。
そんな時期、ついに蝦夷の雄・阿弖流為が降伏します。同じく指導者クラスの人物であったと思われる母礼(もれ)ほか、約500人の蝦夷とともにです。この件が朝廷に報告されたのが、延暦21年の4月15日でした。
降伏した阿弖流為は母礼とともに田村麻呂に連れられ、平安京へ向かいました。京において田村麻呂は、2人の命を救うよう意見しました。2人を生かすことで、さらに多くの抵抗者の降伏を促せるというのです。しかし、朝廷は2人を許そうとはしませんでした。田村麻呂の願いもむなしく、2人は処刑されました。
この時の記録は非常にシンプルで、基本的には上記のようなことが書いてあるだけです。阿弖流為と母礼がいかなる思いで田村麻呂に降伏し、処刑されたのか。田村麻呂を恨んだか、それとも全てを受け入れていたか。田村麻呂のほうは2人の死に際しどのような思いを抱いたか。それらについては記録がなく、全ては歴史のかなたに消えてしまったことです。
その後
以後の田村麻呂について簡単に触れておきます。阿弖流為の処刑後も田村麻呂は東北の統治と征討に関わりましたが、やがて征夷という政策そのものが一旦中止されてしまいます。その後の田村麻呂は中央で働き、天皇の信頼も厚かったといいます。また、征夷政策が中止されたにもかかわらず、田村麻呂はかなり長い間「征夷大将軍」の職を帯びたままでいました。この理由はよく分かっていません。あるいは征夷の功績が評価されてのことだったのかもしれません。
田村麻呂が亡くなったのは弘仁2(811)年5月23日のことです。東北平定の英雄であり、生前も栄光に包まれていた田村麻呂でしたが、死後、時が経つにつれ、その名声はさらに高まりました。武人の鑑とされ、その生涯は伝説めいて語られるようにさえなるのです。
蝦夷の方は、その後どうなったでしょうか。征夷については、田村麻呂の死の年、弘仁2年に再び実行されました。実はこれが朝廷をあげての大きな征夷としては最後です。その後も幾度かの反乱やそれに対する征伐はあったものの、平安時代も後期ごろには、東北全体が朝廷の勢力圏にとりあえず収まりました。その後は蝦夷という概念そのものが、徐々に史料から消えてゆくのです。
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