江戸時代の米沢藩主・上杉治憲。号である「鷹山」の名の方がよく知られているでしょうか。藩の危機的財政を見事に立て直したいわゆる「名君」の一人であり、地元では今も「鷹山公」と呼ばれ親しまれているそうです。今月はそんな名君・上杉治憲の生涯を追ってみましょう。
上杉の養子に
上杉治憲は、江戸時代中期の寛延4(1751)年7月20日、高鍋藩主・秋月種美の次男として江戸で誕生しました。高鍋藩というのは現在の宮崎県にあった藩です。
治憲は9つになると、8代米沢藩主・上杉重定のもとに養子に出されました。重定に後継者がいなかったためです。米沢藩と高鍋藩、距離的にはかなり離れていますが、両者には縁がありました。実は治憲の祖母が米沢藩4代目・上杉綱憲の娘だったのです。彼女は黒田家という別の大名家に嫁いでいるのですが、ともかく治憲は米沢藩主のひ孫ということになります。もう一つ言うなら、当時の藩主である上杉重定は綱憲の孫にあたります。要するに、治憲と養父・上杉重定は、別系統ではあるものの、一人の人物の孫とひ孫であるということです。
上杉家と米沢藩
ここで治憲がもらわれていった上杉家、そして米沢藩について触れておきましょう。上杉といえばあの戦国の大英雄・上杉謙信を思い出される方も多いでしょうが、その連想は正解です。ここで出てくる上杉家はまさに上杉謙信の上杉家なのです。ただし謙信には子がありませんでしたから、ここまでに触れた4代・綱憲も、8代・重定も、そしてもちろん治憲も、謙信の直系というわけではありません。江戸期に入っても継嗣断絶の危機があり、系統が変わったこともあります。しかし、そのあたりまで説明していると少々複雑になりますので省略します。
さて、その上杉の領地が米沢藩(現在の山形県)です。しかし、上杉謙信といえば越後(現在の新潟県)を中心に勢力を張った戦国大名だったはずです。それがなぜ米沢を本拠とするようになったのかというと、移動させられたからです。
16世紀の末。謙信の後継者である上杉景勝の時代のことです。統治の都合から、豊臣秀吉が上杉氏の領地を、越後から移動させました。これによって上杉は越後を離れたのです。この時の移動先は会津です。石高は120万石。もちろん大大名と言える規模です。
やがて関ヶ原の戦が起こると、さらに状況は変化します。この戦に際して上杉氏は徳川家康の敵として戦ったため、領地のほとんどを取り上げられました。これで上杉氏は米沢の30万石の大名となったというわけです。
120万石から30万石への転落。こうなると、まずやらなければならないのは家臣団の整理でしょう。しかし当時の米沢藩はそれをしませんでした。それまで抱えていた家臣団をほぼそのまま連れてきたのです。これでは財政は苦しいに決まっています。しかもその後、江戸時代になってしばらく経った頃に、30万石の領地が15万石に減らされるということまで起きてしまいました。先ほど少しだけ触れた継嗣断絶の危機が原因です。これで財政はさらに苦しくなります。
治憲が上杉家へやってきたのは、それからさらに時代が過ぎ、財政危機がいよいよきわまりつつあった時代でした。
治憲の改革
上杉家に養子としてやってきた治憲は、16の年に上杉の家督を継ぎ、藩主となりました。ちなみに、治憲の名はその直前の時期に名乗り始めました。江戸幕府10代将軍・徳川家治の「治」の字を与えられたものです。
わずか16歳の青年藩主・治憲は、逼迫する藩財政を立て直すために改革を開始します。
まず治憲は、自分の生活費など、藩中枢で消費する経費を大幅に削減しました。さらに、家臣である藩士たちや百姓たちにも倹約を奨励しました。その一方で、植林などの産業奨励策を行ったり、藩校を設立して藩士に学問をさせたりもしました。
ただし、これらの改革はどちらかというと締め付けによって進められた面が大きかったようです。その反動か、改革の初期には、変化を嫌う旧来の重臣たちが連名で改革停止を直訴するという騒動まで起こっています。
しかし、改革は失敗だったということではなく、ある程度の効果を上げました。この時期に起こった「天明の大飢饉」においては、過去に起こった飢饉の例より随分餓死者が減少したとされています。(「餓死者がゼロであった」などと言われることもありますが、これは誤りです)
34の年、治憲は息子に家督を譲ります。ちなみにこの息子、治広といいますが、治憲にとっては養子であり、養父・重定の実子です。治憲が上杉家に来た後に生まれたのです。
治憲が30代の若さで藩主を退いたのには、まずこのころに改革派の重臣が失脚しており、その影響が一つありました。しかしそれだけではなく、養父の存命中に、実子・治広が家督を継ぐさまを見せるためでもあったと言われます。
さて、家督を譲った後の治憲ですが、そのまま引退したわけではありません。藩主を引退した身のまま、改革の中心としてまだまだ藩政を指揮し続けます。
後半の治憲改革は、前半の統制的なものとは違い、どちらかというと柔軟なものとなりました。ただ倹約や緊縮を叫ぶだけではなく、商人たちを使って財政再建策や経済振興策を実行しました。また、家柄にとらわれない人材登用や意見募集も行われました。
これらの改革は、前半に行われた改革とも合わさり、やがてしっかりと実を結んでゆくこととなります。治憲が亡くなったのは文政5(1822)年3月12日のことですが、この頃には、かつて崩壊寸前だった米沢藩の財政もほぼ再建されたのです。
「名君」の人となり
さて、ここで治憲にかんするいくつかのエピソードをご紹介しましょう。
■若き藩主
治憲が藩主となったのは満年齢で16歳の年のこと。初めて米沢入りしたのは、そのおよそ2年後です。藩主は米沢に入る際、少し手前の関根という土地から馬に乗って入るのがきまりでした。しかし治憲は、その関根よりさらに手前から馬に乗り、雪の中を米沢入りしたと伝わっています。
さらに治憲は、藩主就任の祝いの儀式においても慣例を破りました。祝いの料理を倹約メニューへと変え、しかも家臣との対話において、身分の低い者にまでしっかりと声をかけたのです。いずれも、旧弊にとらわれない、若さ溢れる新藩主の姿が想像される話です。
■農作業の手伝い
あるおばあさんが、干した稲を取り入れる作業中、夕立が来そうだというので困っていたら、通りかかった2人の武士が通りかかって手伝ってくれました。それでおばあさんは後にお礼を届けに行ったら、届け先は藩主の屋敷でした。何と、手伝ってくれた武士の1人は藩主の治憲だったのです。
……というエピソードが伝わっています。いくら何でも伝説だろう、昔話だろうと思ってしまいそうになるのですが、どうやら実話らしいことが分かっています。この出来事を伝えるおばあさんの手紙も残っています。
■出迎え
治憲の学問の師に細井平洲という儒者がいます。平洲は幾度か米沢を訪れており、その3度目の訪問時の話。本来この出迎えは使者によって行われるものでした。しかし治憲は、すでに藩主の座を退いていたとはいえ、自ら師の出迎えに現れたのです。この行動に、平洲は深く感動したと伝わっています。師を敬うことの好例として、かつては日本中に広く知られていた話です。
このようなエピソードは数々伝わっており、治憲が人格的にもすぐれた人物だったことが分かります。改革者としての業績、人格者としての逸話。これらが揃って、今に伝わる「名君」像が生まれたのでしょう。
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