今月ご紹介するのはオランダの科学者・レーウェンフック。一般的な知名度はそれほど高くないかもしれません。しかし、商人で顕微鏡制作者で微生物学者という、ちょっと風変わりで面白い人物です。
顕微鏡を作る
レーウェンフックは1632年の10月24日に、オランダのデルフトで生まれました。1632年は日本でいうと江戸時代のはじめ。将軍は「生まれながらの将軍」3代徳川家光。ちょうどこの年に先代の徳川秀忠が亡くなったところでもあり、いよいよ戦国が遠くなりつつある時期といったところでしょうか。
レーウェンフックが生まれたのはカゴ作りを営む家で、父は早くに亡くなっています。学校には通い、いくらかの学問もあったようですが、学者になるとかそういった程度のものではありませんでした。またその学校も16の年に辞めて織物店に奉公しています。この奉公はおよそ6年続き、その後レーウェンフックはデルフトに戻って織物店を開きました。結婚して子供も儲けました。まず商人として順調だったものと思われます。また、役所の仕事にも従事していたようです。
青年期のレーウェンフックについて分かっていることは大体このくらいです。しかしこの時期、おそらくレーウェンフックが熱中していたと思われることがあります。それこそが顕微鏡の製作、そしてそれを用いた観察活動でした。
レーウェンフックの顕微鏡は、当時あった顕微鏡よりもかなり高性能でした。おそらく彼独自のレンズ製作法を編み出したためと考えられています。その顕微鏡を使い、レーウェンフックは身の回りのさまざまなものを覗いたのです。
王立協会とのコンタクト
レーウェンフックがやっていることの重要性にまず気付いたのは、デルフトの医師、ド・グラーフです。彼はロンドンの科学者団体である「王立協会」にレーウェンフックのことを知らせました。これにより協会側は、レーウェンフックにその観察記録を求めました。
こうしてレーウェンフックから協会へと送られてきた手紙は、当時の科学者が一般的に用いていたラテン語ではなく、庶民的なオランダ語で書かれており、科学論文としてのまとまりにも欠けていました。しかしその内容は大したもので、彼の見出した微小な物の様子がしっかりと記述されていました。王立協会側は驚嘆し、レーウェンフックに今後も記録を送り続けるよう希望しました。レーウェンフックもそれを承諾し、以後、死ぬまでの間、数百通もの手紙を王立協会へ送り続けるのです。
なお、しばらく後にレーウェンフックは王立協会の会員にもなっています。それほど彼のやったことが素晴らしいということだったのでしょう。オランダの織物屋が、ロンドンの一流科学者の仲間入りを果たすに至ったということでもあります。
頑固な観察者
レーウェンフックがその顕微鏡で覗いたものは実に多種多様でした。それこそ身の回りで覗けるものはあらかた覗いたようです。レーウェンフックの業績として代表的なものとしてはまず、微生物を発見したことが挙げられます。彼はそれらを、水の中はもちろん、人間の便や、歯に詰まったカスなどの中にも見出しました。ほかに、毛細血管の存在を確認したり、赤血球の形を確認したり、ノミやハエの身体のつくりを確かめたりもしています。
そんなレーウェンフックですが、性格は非常に変わり者というか、頑固だったと伝わります。何しろ彼は、自分の顕微鏡を誰にも触らせませんでした。人に顕微鏡を覗かせる時は、本体を自分の手に持って覗かせたのです。さらに、その製作法も決して明かしませんでした。彼は生涯にわたって200〜300台もの顕微鏡を作ったとされますが、生前、誰がそれを譲って欲しいと申し出ても、1台とて譲ることはありませんでした。レーウェンフックは、自分の観察結果は明かしても、その源泉である顕微鏡のことは徹底的に秘密にしたのです。
それほどまでにこだわっていただけあり、彼の顕微鏡は同時代のどの顕微鏡よりも優秀でした。その倍率はおよそ200倍に達していたといいます。ここまで触れてきたとおり、そこから生み出される観察結果も素晴らしいものでした。そのため、レーウェンフックのヨーロッパにおける知名度も非常に増してゆきました。その名声は、同時代の名だたる科学者と並ぶほどのもの。わざわざ彼のもとを訪れ、その顕微鏡をのぞいた人物の一人には、イギリスのアン女王までが含まれていたというのですから、凄まじいものです。
彼は大変に長生きし、80代まで旺盛に研究を行いました。そして1723年の8月26日、91歳でこの世を去りました。死後、王立協会へ自分の顕微鏡を送るように言い遺し、実際に顕微鏡は協会へと送られました。
天賦の才
レーウェンフックの偉いところとは何だったのでしょうか。高性能の顕微鏡の作り方を発見したことでしょうか。もちろんそれは素晴らしい業績ですが、実は彼の真髄は作った顕微鏡を「どのように」使うかという部分にあったのではないかと思えます。
人は先入観からはなかなか自由になれません。未知のものを見つければ、ほんのちょっとした手がかりやそれまでの経験だけで、その正体を決めつけてしまいがちです。しかしレーウェンフックは違いました。
彼は熱意を持って何でも観察しましたが、その観察結果に主観を入れることなく、見たままを記録しました。観察に基づいて何かを断定するとなれば、彼は非常に慎重になりました。さまざまな実験なども行い、
疑問があれば何度もやり直したといいます。大した学問もなかったレーウェンフックですが、このような「科学的姿勢」はしっかりと持っていました。研究の手法が確立されていない数百年の昔において、これはまさにレーウェンフックの天賦の才であったと言えるでしょう。そして、この才能こそが、一介の織物商をヨーロッパ有数の科学者に押し上げた一番の要因ではなかったでしょうか。自らの顕微鏡を徹底的に秘匿したあの頑固さも、その発現だったということなのでしょう。
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