今月ご紹介するのは、中国から日本へ渡来した禅僧・隠元隆き(いんげんりゅうき)※です。一般には隠元豆を日本に伝えた人物として知られているでしょうか。しかし隠元はそれだけの人物ではありません。隠元の来日は、当時の日本仏教界にも広い影響を与えたのです。
※「き」は王(おうへん)に奇
父を捜すが……
隠元が誕生したのは中国・明の万暦20(1592)年11月4日。日本では豊臣秀吉の天下統一がすでに成し遂げられており、この年には文禄の役が起こっています。
生誕地は今でいう中国の福建省で、父の名は林氏といいました。具体的にどのような暮らしを送っていたのかは不明ですが、家はそれなりに裕福だったと考えられています。なお、隠元というのは法名で、出家前は別の名を名乗っていたわけですが、ここでは隠元の名で通すことにします。
さて、隠元が5歳のころ、彼の父が家から出たまま帰らないという出来事が起こります。これによって家は段々と貧しくなりました。隠元自身はなかなか頭の良い少年だったようですが、このような事情から、本格的な学問をするというわけにはいかなくなりました。
20歳の頃、隠元は父を捜す旅に出ます。そろそろ結婚する歳だが、父が行方不明のまま結婚することなどできない、という孝行心からでした。
こうして各地を回った隠元ですが、旅の中で出家を希望するようになります。もともと仏教への興味を抱いていたということもあったのですが、大きなきっかけは、旅の途中に普陀山という仏教の聖地を訪れたことと伝わっています。
とはいえ、すぐさま出家したというわけではありません。いったん帰郷し、故郷で母の面倒を見、数年後、母が亡くなってから出家しました。出家の場所は、故郷に近い黄檗山萬福寺というところです。
なお、父は結局見つからなかったようです。
出家、修業、そして日本へ
出家した隠元は修行の日々を送り、その中で密雲円悟という臨済宗の高僧を尋ねます。この密雲との関わりの中で隠元は禅僧として大悟しました。いわゆる「悟りをひらいた」ということです。隠元が34歳ころのことです。
その後、密雲が萬福寺の住職となると、隠元もそれに付き従いました。出家の地に戻ってきたということになります。
のちに、密雲の弟子・費隠通容が萬福寺の住職をつとめますが、そのころに隠元はこの費隠の法を嗣ぎました。つまり、弟子として師の教えを正式に受け嗣いだということです。
以後、隠元自身も萬福寺住職をつとめたほか、さまざまな寺を回り、54歳の歳に再び萬福寺の住職となりました。隠元時代の萬福寺は非常に発展したといいます。
隠元に日本からの招請があったのはこの後のことです。もともと日本側は隠元の弟子にあたる僧を招いており、船が沈んでその僧も亡くなってしまったということがありました。それで、その師匠にあたる隠元を招こうという流れになったものです。
すでに中国では高僧として慕われていた隠元であり、日本渡航には弟子などから非常な反対があったといいます。しかし、度重なる依頼に隠元はついに決心し、3年の約束で日本へと渡るのです。
寺を開く
日本にやってきた隠元はまず長崎の興福寺に入りました。さらにその後、摂津富田(現在の大阪府高槻市)にある普門寺に招かれて入りました。はじめのうちはそれほど自由もなく、窮屈な生活を送っていたようです。しかし、禅の本場・中国から高僧が来日したということで、僧俗問わず、たくさんの人々が隠元との交流を希望するようになってくると、そういった縛りも徐々に緩みました。この普門寺時代は、当時の将軍・徳川家綱への謁見さえも実現しています。
このような状況の中、日本側の僧たちが希望するのはやはり隠元のさらなる長期滞留、ひいては日本永住です。僧たちはその希望を叶えるために奔走します。この運動は、やがて隠元に対して幕府が寺地を授けるという通達へと結実するのです。
当時の日本では、仏教は体制に組み込まれていました。つまり、幕府によって管理され、支配機構の一部として機能する面も持っていたということです。そんな状況において、中国の僧に土地を与えて寺を開かせるというのはまさに異例の待遇だったといえるでしょう。隠元ははじめ、約束通り3年で中国へ戻るつもりでした。しかし、これで日本にとどまることを決意するのです。そこまでしてくれるのなら、日本において禅の興隆に身を捧げようということです。
こうして京都において、隠元の寺が開かれることとなりました。その名も、黄檗山萬福寺。隠元がかつて出家し、住職もつとめた寺と同じ名です。ここから始まるのが、日本黄檗宗ということになります。隠元がこの黄檗山に入ったのは69歳の年、寺が開創されたのは71歳の年です。来日よりすでに8年程が経っていました。
紫衣のこと
寺が開かれてより間もなく、隠元は萬福寺住職を引退しました。それまではさまざまな責任もあり、何かと不自由な身でしたが、引退後は少しは余裕もでき、各地を訪れたりなどということも行えたようです。
この時期の一つのエピソードをご紹介しましょう。この頃、隠元の弟子などが、隠元に「紫衣(しえ)」が授けられるよう運動しようとしたことがありました。「紫衣」が僧が身につける紫の袈裟や衣のことで、高位の僧に対して朝廷が賜ったものです。しかし隠元はこの運動を断固として止めさせ、それでこの話もなくなりました。世俗の名誉にこだわらない隠元の僧としての姿勢がよく分かります。
隠元が残したもの
隠元が日本に与えた影響というのは大きなものがあります。まず、仏教に大きな影響を与えたことは言うまでもないでしょう。先ほど触れたように、当時の仏教界は体制に組み込まれつつありました。そこへ隠元が新しい宗派立ち上げという風を吹き込んだことは、仏教界にとって非常なニュース、刺激だったと言えます。
また、文化的にも小さくない影響を与えました。当時の中国僧というのは、学問や詩文、書画などについての高い素養を持っていました。隠元やその弟子たちももちろんそうで、彼らの書などは当時の人々に大変珍重されました。それらが当時の文化、さらに江戸時代の文化の流れにも一定の影響を与えたのは間違いのないところでしょう。
隠元が亡くなったのは寛文13(1673)年のこと。遺偈(ゆいげ=禅僧としての最期の言葉)を書いての大往生でした。日本の萬福寺は隠元の死後も発展を続け、もちろん現在も存在しています。
|