今月紹介するのは「エレキテル」を作った人物として知名度が高い平賀源内。発明家、アイデアマン的なイメージの強い人物ですが、実際は少々様子が異なるようです。
遊学、そしてフリーに
源内が生まれたのは享保13(1728)年。享保の年号が示すとおり、将軍・徳川吉宗の享保の改革が進められていた時代です。
家は高松藩(現在の香川県)の下級藩士家で、名前は国倫(くにとも)といいます。一般的に通っている「源内」は通称で、しかも多数名乗ったうちの一つですが、ここでは源内の名で通すことにします。
少年時代の源内は、やはりと言おうか、さすがと言おうか、なかなかに優秀だったようです。武士の学問・儒学を学び、また文章を好み、俳諧にも秀でていました。
やがて源内は、本草学などをはじめとするオランダの知識を得ようと長崎へと遊学します。20代半ばのことです。
この遊学は源内にとって強い印象を残しました。そして、今後さらに本格的に研究を進めようとしたものか、遊学後、藩の役職を退くことを願い出、認められます。その上、嗣いでいた家督も婿養子に譲り、源内は浪人になりました。今の言葉で言えば、新分野に乗り出すため、完全なフリーの研究者になったという感じでしょうか。
本草学の道
その後、源内は江戸に出て本草学者・田村藍水(たむららんすい)の弟子となります。
本草学というのは、きわめてざっくりと言うなら「自然界に存在するさまざまな物を研究する学問」で、特に薬学的な視点が重視されているのが特徴です。本「草」学と、草の字が含まれていますが、研究対象は植物ばかりではなく、鉱物や動物も研究されました。
その本草学者に弟子入りしたわけですから、源内もその道を歩き出したということになります。しかも当初はなかなか順調だったようで、たとえば師とともに物産の展示会を数度開き、評判をとっています。
さて、このような活動で実績を得た源内は、見込まれて故郷の高松藩に再び召し抱えられるのです。ちなみに当時の高松藩は、藩主が博物好きの人物でもありました。
しかしながら源内はこの職をやがて辞めてしまいます。地方の藩で、さほど高くもない地位でいることに不満だったか、ともかく性格に合わなかったということなのでしょう。なお、この辞職には、今後高松藩以外に就職してはならない、という条件が付きました。源内、33歳の年のことです。
ともかくここから源内は再びフリーの身になったということですが、以後はかなり苦労することになります。その理由はさまざまありました。例えば源内という人は、蘭学に手を出していながら、実はオランダ語の実力は高くありませんでした。これは学問を進める上での大きなハンデともなりました。また、先の就職制限も大きな縛りで、常に不安定な生活を強いられました。自信家で尊大な性格だったととも言われ、そこも問題だったかもしれません。
ともかくこの後、研究資金を稼ぐ必要もあり、源内はさまざまな分野に手を出します。よく言われる「マルチタレント平賀源内」的な活動は、主にこの時になされたものなのです。
以下ではそのような源内の活動を順不同にご紹介しましょう。
●発明家源内
源内の実績で世にもっとも知られているのは発明家としての実績でしょう。とは言え、発明をしようと思えばモノに対する知識が欠かせませんから、本草学の道ともそれなりに近い分野ということは言えるでしょう。
具体的な発明品ですが、まず、「火浣布(かかんぷ)」と言われるものがあります。これは耐火性の織物で、源内が自ら見つけてきた石綿を原料としていました。そして、言わずと知れた「エレキテル」の発明。これは、実は案外経緯詳細のはっきりしていない物品なのですが、オランダから伝わった静電気発生器を源内が修繕したものと言われています。しかし源内がその原理を分かっていたというわけではなく、ただ修繕して見せ物にしていたということです。
●鉱山開発者源内
源内は鉱山開発も行いました。金や銀の採掘を仕切ったのですが、あまり上手くはいかなかったようです。
●画家源内
画家としては「西洋婦人図」という油絵を残しています。これは洋画の先駆けとして大変有名な作品で、現在も歴史の授業でよく取り上げられます。ただ、逆に言えば源内の画業はその程度で、画家としての太い活動を行ったいうわけではありません。本人も余技、教養の積もりだったでしょう。
●文学者源内
源内は文才はかなりあったようで、「戯作」と言われる当時の大衆向け読み物の分野で作品を残しています。また、人形浄瑠璃の脚本なども執筆しました。
●その他
有名なところでは「土用の丑の日」を考え出したのは源内だとも言われています。歯磨き粉の売り文句を考えたりもしています。これらの仕事から、源内が「コピーライターの先駆け」と表現されることもしばしばあります。。
ほか、陶器の製作指揮、細工物制作など、実にさまざまなことに手を出しています。本当に器用な人だったのでしょう。
その死
このように、さまざまなことに手を出した源内ですが、先にも少し述べたとおり、それらは華やかなマルチタレントとしての活動ではありませんでした。むろん趣味の部分もなくはなかったでしょうが、基本的には、生活資金、研究資金を稼ぐためという面が大きかったのです。源内の多彩な活動とは、言わば世に出るためのあがきのようなものだったと言えるのです。しかも、どれも成功したとは言い難いものでした。彼の残した文章類には、鬱憤を晴らすかのような社会批判的内容が見られます。自嘲的に「貧家銭内(ひんか・ぜにない)」などと名乗ったこともありました。
そんな源内の死は突然でした。51歳の年、源内は仕事上の言い争いがもとで人を傷つけ、そのために捕縛されます。そして、そのまま牢の中で破傷風にかかって死んでしまうのです。安永8(1779)年、12月18日のことでした。世に出よう出ようとしてかなわなかった挫折の人・平賀源内。そう考えると、意外なような、納得できるような、どちらにしろ切ない死に様ではあります。
|