今月ご紹介するのは、戦国時代の末にヨーロッパへと渡った少年使節団のお話。かれらは普通、「天正遣欧使節」「天正遣欧少年使節」などと呼ばれ、歴史の教科書にもしっかり登場します。激動の時代に少年たちがたどった数奇な運命を追ってみましょう。
少年教徒派遣計画
日本にキリスト教が伝わったのは戦国時代真っただ中の天文18(1549)年のこと。宣教師たちは活発に活動を続け、日本のキリスト教徒は順調に数を増やしてゆきます。その広がりは庶民だけではなく大名にまでおよびました。かれらキリスト教を信じる大名を「キリシタン大名」などといいます。
さて、戦国時代の後期に織田信長が出現します。信長は南蛮貿易(西洋との貿易)に積極的で、南蛮の品物も大好き。キリスト教に対してもとても寛容でした。そんな信長が強い力を誇っていた時代に計画されたのが「天正遣欧使節」なのです。
使節の計画者はバリニャーノという宣教師です。日本の文化に馴染み、日本に溶け込みながら布教を行うという方針で布教に成果をあげました。織田信長に謁見したこともあります。
計画には、使節を送ることでヨーロッパに日本の存在を知らせ、日本布教へのさまざまな援助を引き出すこと。そして使節にヨーロッパを見せ、その経験を日本に伝えてもらって布教に役立たせること…といった意図がありました。
使節として選ばれたのは4人のキリスト教徒少年です。順に紹介しましょう。名はいずれも洗礼名で、年頃は13、14歳でした。
■伊藤マンショ…キリシタン大名・大友宗麟の遠い親戚。正使。
■千々石(ちぢわ)ミゲル…キリシタン大名・有馬晴信と大村純忠の親戚。正使。
■中浦ジュリアン…肥前出身の少年。副使。
■原マルチノ…同上。
欧州で大歓迎される
使節が長崎を出発したのは天正10(1582)年1月28日のことです。もちろん、当時の船旅ですから非常に過酷なものになるはずで、実際に多くの苦難に見舞われました。嵐に遭う、病気にかかる。乗組員のなかに死者も多く出たといいます。しかし使節の4人はどうにか生きてヨーロッパの土を踏むことができました。天正12年7月、一行はポルトガルのリスボンに到着しました。なお、バリニャーノも一緒に出発しましたが、都合により途中で船を離れています。
欧州に到着した一行は、ポルトガルからスペインへと向かいました。スペインに到着すると、国王・フェリペ2世に謁見し、非常に歓迎されました。フェリペ2世は16世紀ごろのスペイン最強時代を代表する国王。当時はポルトガル国王も兼ねており、ヨーロッパ世界でも最高クラスの権力者と言える存在でした。
続いて一行はイタリア半島へと移動し、ピサ、フィレンツェで歓迎され、天正13年の1月にはローマに至り、ローマ法王への謁見を果たすのです。
この時点で使節団のことはヨーロッパじゅうに知られていたようです。遠い東の国からやってきた4人のキリスト教徒少年たち。彼らの存在は一種のブームのようなものを呼び、行く先々で歓迎されました。少年たちは歓迎のされすぎで疲れてしまうほどだったといいます。また、かれらや日本についての本なども多数刊行されました。バリニャーノの意図のうち、日本のことをヨーロッパに知らしめるという意図は達成されたと言ってよいでしょう。こうして一行はおよそ1年半のヨーロッパ滞在を終え、天正14年に日本への帰路につきます。
日本に帰る
使節団が日本に帰着したのは、天正18(1590)年6月のことです。4人揃って帰ってこられたのは、当時としてはまさに奇跡でした。出発から実に8年の時が経過し、少年たちは立派な青年へと成長していたことでしょう。しかし、それ以上に、日本の国の状況は激変していました。
歴史の好きな方ならとうに気づいていたかと思いますが、彼らの出発した天正10年には日本史上の大事件が起こっています。そう、本能寺の変です。使節が出発したのが1月、変が起きたのが6月ですから、まさに彼らが出発した直後に変が起こり、織田信長が死んだわけです。
その後、天下は豊臣秀吉が取りました。秀吉は信長の方針を受け継ぎ、キリスト教には寛容でした。しかし徐々にその態度は徐々に変わり、天正15年には「バテレン追放令」と呼ばれるキリスト教の規制令を出していました。ただ、規制令といっても江戸時代のような苛烈なものではなく、バテレン(宣教師)の国外退去を命ずる程度で、人々のキリスト教信仰そのものは許していました。
とはいえ、キリスト教に逆風が吹いている状況なのは間違いありません。使節が帰ったのはそういう時だったのです。なお、かれらもそれらの情報を一応知ってはいたようです。ともかくも不安は大きかったに違いありません。
さて、日本に降り立った4人は豊臣秀吉に謁見する機会を得ました。前述の通り、当時のキリスト教規制はそこまで厳しくありませんでしたので、秀吉との面会は無事に終了しました。かれらは秀吉に仕官まで勧められたということです。無論4人はキリスト教の道を歩くと決めており、勧めには応じなかったのですが。
その後の人生
その後のかれらは、四者四様の道をたどりました。最後に、4人それぞれのその後をご紹介しましょう。
まず千々石ミゲル。他の4人とともに聖職者の道を歩きましたが、関ヶ原の戦の翌年である慶長6(1601)年に理由は不明ですが棄教しています。その後の人生はあまり振るわなかったようで、寛永10(1633)年ごろに亡くなったということです。
伊東マンショは慶長6年、中浦ジュリアンとともにマカオへと留学しました。慶長13年には原マルチノ、中浦ジュリアンとともにめでたくキリスト教司祭に叙されています。しかし江戸時代に入り、キリスト教への風当たりは強くなる一方。かれも時代の流れには逆らえず、土地を追われ、最終的には長崎でキリスト教活動を行いながら、慶長17年に病死しました。
原マルチノはラテン語に優れていたと言われます。その優秀さから日本にとどまって活動していたものの、江戸幕府のキリスト教禁止令が出るとマカオへと追放されました。かれはその地で宗教活動を続け、寛永6(1629)年に亡くなりました。
最後に残ったのは中浦ジュリアンで、かれは4人のうちで最も劇的、しかも悲劇的な死を遂げました。国内での宗教活動が困難になりつつあった時、マルチノは国外追放となりましたが、ジュリアンは国内で活動し続けることを選びました。しかし寛永9(1632)年にとうとう捕らえられ、翌年、長崎において処刑されました。そのさかさ吊りの刑のさなか、かれは「我こそはローマを見た神父中浦ジュリアンである」と叫んだ、と伝わります。
4人は「人物」
この4人の生涯を見るとき、たとえば同時代の戦国大名のような、日本史を大きく動かした事件には彩られてはいません。「天正遣欧使節」とは、その知名度とは異なり、日本史的な影響力は小さかったのです。
しかしながらこの4人は、個人としてはとびきり希少な体験をしています。それは同時代のどんな日本人も、信長も秀吉さえも踏み込んでいない領域です。それだけに、かれらの生涯からは、どこかリアルな手触りのある「人生」が漂ってくるような気がしないでしょうか。
少年たちが命を懸けてヨーロッパに渡る。さまざまな驚くべき経験をするが、帰国すると無情にも国内の情勢は激変していました。その時のかれらの心持ちはいかなるものだったでしょうか。翻弄されている、と感じたでしょうか。それでも信仰心に熱く燃えていたでしょうか。
もちろん、その後も彼らの人生は続きます。棄教する者、信仰を貫いた者。海外へ出た者、国内を転々とした者。かれらはそれぞれの道を歩き、死んでゆきました。何か書物の上の偉人としてとらえがちな歴史人物も、間違いなく「人物」であり、それぞれの思いを抱えながらそれぞれの人生を生きていた。天正遣欧使節の4人は、そんな当たり前のことを改めて実感させてくれる存在のように思われます。中浦ジュリアンの最後の叫びが、心に迫ってくるようです。
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