今回は鎌倉時代の僧・一遍をご紹介します。一遍といえば、いわゆる鎌倉新仏教の担い手の一人で、時宗の開祖である人物。どのような生涯を送ったのか、見てみましょう。
コマを回すも止めるも
一遍が生まれたのは延応元(1239)年2月15日のこと。時代としては鎌倉時代の前期にあたり、「御成敗式目」を作った3代執権・北条泰時が政治を担っていました。
一遍は伊予(現在の愛媛県)の豪族の家に生まれたと伝わっています。しかしその家は承久の乱で反幕府側についたことで没落していました。
幼年期のことはほとんど伝わっていません。しかし、9歳のころに母を亡くし、その時に父から命ぜられて出家したことはわかっています。以後、法然(浄土宗の開祖)の孫弟子に師事したりなどして、十年余りにわたって修行しました。
24歳の年に出家を勧めた父が亡くなり、一遍は一度還俗(げんぞく=僧侶をやめること)します。結婚して子も儲けたらしいのですが、8年後には再び出家して仏法修行を開始します。このときの一遍の心境について伝わっています。人が迷いの世界を生まれ変わり続けること(=輪廻転生)を「輪鼓(りゅうご=コマのようなおもちゃ)」の回転に例え、これを回すも止めるも自分次第であり、自ら止めればよいと気付いたために出家する、といった内容です。
再修業を始めた一遍はやがて遊行(=布教のために各地を旅すること)の旅へと出発します。始めは妻子も同行していましたが、それとも途中で別れ、全てを捨てての旅となりました。この旅の中で一遍は、南無阿弥陀仏ととなえるだけで誰もが極楽浄土に往生できると思い至り、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書いたお札を配り始めます。「決定往生(けつじょうおうじょう)六十万人」とはつまり、六十万人の人にお札を配ろうという願いを表していますから、壮大なものでした。
万人に親しまれる教え
一遍が全国を遊行するうち、弟子や同行者らも生まれました。一遍は彼らも引き連れて旅をします。
一遍が開いた「時宗」という宗派は、実は言葉としては江戸時代に生まれたものです。それまでは「時衆」と書いていました。時宗総本山遊行寺のウェブサイトによりますと、もともとは、お寺のお勤めを時間ごとに交代して行っていた人々を「時の衆=時衆」と呼んでいました。一遍は自分を信ずる人々らをこの「時衆」と呼び、それが一遍の教団の呼び名のもととなったということです。
また一遍は「踊念仏」というものも始めました。これは読んで字のごとく、太鼓などの楽器を打ち鳴らし、踊りながら念仏を唱えるというもの。一遍が尊敬していた僧・空也に影響を受けたものとも言われます。空也は平安時代の僧で、全国を回りながら念仏を広め、多くの信者を獲得しました。
これらのことから分かるように、一遍の教えは万人を対象とするものでした。「南無阿弥陀仏」の文字(=名号、仏の名)を仏そのものと考え、これを唱えれば信心の有無さえかかわりなく往生できるという考え方です。「南無阿弥陀仏」を記したお札を配って人々と仏を結ぼうとしたことも、親しみやすい踊念仏を始めたことも、全国津々浦々を回って教えを広めたことも、そのような考えからというわけです。
一つ、エピソードをご紹介しましょう。一遍たちが当時の鎌倉幕府の根拠地・鎌倉に入ろうとしたときのことです。たまたま当時の執権・北条時宗の一行と行き合いました。時宗の部下の武士は怪しげな集団と見て一遍らの鎌倉入りをストップします。「お前は名声を求めようとしているだけだろう」と責める武士に対して一遍は「私はただ人々に念仏を勧めようとしているだけです。あなたがたも現世の罪で地獄に落ちようとする時は念仏に助けられるというのに」と堂々応えました。しかし武士たちは構わず、一遍を杖で2度ほど殴りました。一遍はそれ以上鎌倉に入ろうとはしなかったのですが、この話は周辺の人々に伝わり、逆に一遍の人気は高まったと言います。一遍の宗教人としての態度がよくわかるエピソードです。
貴重な絵巻史料
一遍といえば「一遍聖絵」も有名です。これは「一遍上人絵伝」とも呼ばれる絵巻で、国宝に指定されているものです。一遍の活動記録といった絵巻ではありますが、一遍の直接の弟子であり、実の弟とも言われる聖戒という人物が制作に関わっているのがポイント。一遍の生の足跡を記録していると言えるわけで、上記の鎌倉のエピソードなどももちろんこの中に含まれています。また同時に、さまざまな土地の名所や自然、そして人々も美しく描かれており、風俗史料としても貴重。まさに国宝にふさわしい超一級の史料といえます。
ちなみにこの絵巻によると、一遍は当時としてはかなり背の高いほうで、がっしりした体つきの人物だったようです。
一遍の死
各地を飛び回って布教した一遍。彼が亡くなったのは正応2(1289)年の8月23日のことでした。一説には各地を飛び回ったことで身体が弱り、そのための死だったともいいます。また、死に際して「一代聖教皆つきて、南無阿弥陀仏に成り果てぬ(お釈迦様が一代で教えたことは全て『南無阿弥陀仏』の中に込められている、といった意味合い)と言い、持っていた書籍、著書を全て燃やしてしまったと伝えられています。一遍は自らの教えは一代限りで、教団を開く意思は持っていなかったのです。しかしながら、彼の教えは弟子らに引き継がれ、現代にまで脈々と生き続けています。
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