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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


3月号 2013年3月31日更新

【今月の歴史人物】
戦国の「超名門」あれこれ
甲斐武田氏の滅亡
天正10(1582)年3月11


今月号のイラスト 18代、野太らく生きて80年。
(C) イラストレーション:結木さくら

3月の主な誕生人物
01日 芥川龍之介/小説家
01日 和辻哲郎/哲学者
02日 米内光政/軍人
03日 ベル/発明家
03日 カントール/数学者
03日 正宗白鳥/作家、評論家
04日 賀茂真淵/江戸時代の国学者
04日 有島武郎/小説家
04日 松岡洋右/外交官
05日 メルカトル/地図学者
04日 松岡洋右/外交官
05日 メルカトル/地図学者
05日 川上眉山/小説家
05日 ノリス/小説家
06日 ミケランジェロ/画家、彫刻家、建築家
06日 フラウンホーファー/物理学者
07日 中江藤樹/江戸時代の儒者
07日 バーバンク/園芸家
07日 ラベル/作曲家
08日 平賀譲/造船学者
09日 ミラボー/政治家
09日 梅原龍三郎/画家
10日 マルピーギ/医学者
10日 サラサーテ/バイオリニスト
11日 橋本左内/幕末の学者、思想家
12日 キルヒホッフ/物理学者
13日 高村光太郎/詩人、彫刻家
13日 ヘボン/宣教師
14日 アインシュタイン/物理学者
14日 ヴィットリオ・エマヌエーレ2世/イタリア王
15日 ベーリング/医学者
16日 オーム/物理学者
16日 藤田東湖/儒者
16日 ゴーリキー/小説家
17日 ダイムラー/機械技術者
17日 横光利一/小説家
18日 ラ・ファイエット夫人/小説家
18日 ディーゼル/発明家
19日 リヴィングストン/探検家、宣教師
19日 後藤象二郎/政治家
20日 前原一誠/志士、政治家
21日 バッハ(J.S.)/作曲家
21日 フーリエ/物理学者、数学者
22日 ファンダイク/画家
22日 ウィルヘルム1世/独皇帝
23日 マルタン・デュ・ガール/小説家
24日 モリス/工芸家、詩人
25日 樋口一葉/小説家
25日 バルトーク/作曲家
26日 今東光/小説家
26日 エンゲル/統計学者
26日 李承晩/政治家
27日 レントゲン/物理学者
28日 コメニウス/神学者、教育学者
29日 平野国臣/幕末の志士
30日 ゴヤ/画家
30日 ヴェルレーヌ/詩人
30日 ゴッホ/画家
30日 野坂參三/政治家
31日 デカルト/哲学者、数学者
31日 ハイドン/作曲家
31日 朝永振一郎/物理学者

天正10(1582)年3月11日、武田信玄の息子、勝頼が自害しました。これによって戦国大名としての武田氏は滅びるわけですが、そもそも武田氏とはどのような大名だったのでしょうか。今月はそのあたりをご紹介します。

武田氏はれっきとした源氏の末裔
武田氏の祖はれっきとした源氏です。しかもあの源頼朝らの系統である「河内源氏」から分かれて出た系統で、武家の中では全く名門といえる存在でした。
ここで「源氏」について簡単に解説しましょう。そもそも源氏とは、皇族から臣下となったときに名乗る姓です。よって、源氏にもさまざまあるのですが、中でも清和天皇から出た「清和源氏」は段違いの知名度をもっており、「源氏」といえば清和源氏をさすイメージがあるほどです。
なぜ清和源氏が有名かというと、清和天皇の孫にあたる源経基という人物の系統がひじょうに栄え、「武家の源氏」として歴史に大きな影響を与えたからです。
経基の子に満仲という人物がありますが、この満仲は摂津国(現在の大阪府と兵庫県の一部)に拠点を築き、中央政界とも関係を深めつつ力を高めました。これが10世紀、平安時代の中ごろのことです。
そして、満仲の3人の子がさらにそれぞれの系統をつなぎます。長男の頼光―酒呑童子退治の逸話などで現代でもよく知られる―は摂津を拠点とし、かれの系統は「摂津源氏」と呼ばれます。次男の頼親は大和(現在の奈良県)を拠点に「大和源氏」を築き、三男の頼信は河内(現在の大阪府の一部)を拠点に「河内源氏」を築きました。そしてこの河内源氏こそがのちに源義朝、頼朝を生み出し、武家の、日本の頂点に立つ系統なのです。
ではこの源氏と武田氏はどう関わるのかというと、先ほど登場した河内源氏の祖・頼信がそもそも甲斐(のちの武田氏の根拠地)守になったことがあり、そのころから甲斐には縁がありました。この頼信の孫に源義光という人物があり、かれが甲斐に本格的に根付いたとされ、これが「甲斐源氏」のはじまりとされます。ただし実際に義光が甲斐に住んだことはないという説も強くあり、はっきりしません。義光の子、義清の代になると甲斐に根付いたことがはっきりしています。また、この義清は地名から「武田」の姓を名乗ったとされています。そして義清の孫、義光から数えて4代目の子孫にあたる源信義という人物が再び祖父の武田姓を名乗って「武田信義」となり、これが甲斐武田氏の初代となったのです。平安時代の末期のことです。
さて、大変ややこしくなりましたが、端的に言いますと甲斐武田氏とは源氏の末裔、中でも源頼朝を生んだ「河内源氏」から分かれて出た「甲斐源氏」のまさに本流、大変な名門ということです。

信玄の父・信虎
こうして成立した甲斐武田氏ですが、そこからの道のりは平坦ではありませんでした。いわゆる源平の戦いにも参加したり、鎌倉時代の倒幕戦にも参加するなど、さまざまな戦を経験しました。地元での勢力争い、後継者争いなども多くあり、とにかく勢力として安定しませんでした。しかし信義から18代目の子孫、武田信虎の時代にようやく領国経営が安定するのです。この武田信虎とは、歴史や戦国好きの方なら分かるでしょう、そう、武田信玄の父です。
武田信虎は大変力のあった人物でした。信虎の若い頃、国内の豪族との争いがあり、しかもそれに家督などをめぐる家中の争いが絡み、その足元は非常に不安定でした。信虎はそれらの問題を解決し、甲斐の統一を成し遂げたのです。ちなみに、武田信玄の居館として歴史ファンにはおなじみの「躑躅ヶ崎館」は信虎によって作られたもの。信虎以後、この館を中心に甲斐の城下町が発展してゆくことになるわけで、その面でも能力のあった人物とわかります。
しかしその信虎にも落日の日がやってきます。それは息子・晴信、つまり後の武田信玄によるクーデター。信虎はむなしく甲斐を追放されてしまいました。クーデターの原因には諸説あり、信虎が晴信ではなくその弟の信繁を可愛がっていたためとか、領国統治に際して非常に苛烈な政策を強いたためとか言われます。ちなみに、信虎はかなり残忍で自分勝手な性格だったという逸話がいくつも伝わり、それも追放の遠因となったとも言われます、これはクーデター側の晴信(信玄)が自らの正当性を補強するための作り話という説もあり、なんともはっきりしない部分があります。
その後、晴信に追放された信虎はどうなったかというと、かなりしぶとく長生きしました。追放時は47歳、まずは今川義元のもとに身を寄せています。その後は京や大和に赴いたり、隠居状態ではあったものの、あれこれと忙しく活動していました。亡くなったのは80歳で、なんと信玄の死後のことです。
話が前後しましたが、ともかくこうして甲斐武田氏は信玄の時代に移り変わります。しかし、それについては他の稿などでも幾度も紹介してきたので詳しくは触れません。ここからは信玄病死後に武田家の当主となった武田勝頼の時代について紹介しましょう。

勝頼の苦闘・武田氏の滅亡
武田勝頼というのはちょっと複雑なルーツを持つ人物です。父の信玄が信濃の豪族・諏訪頼重を攻め滅ぼした際、その娘を生かして側室としました。その側室との間に生まれたのが勝頼なのです。要は、勝頼にとって父・信玄は祖父の仇です。武田家の男子には、名に「信」の字が付くことが多いのですが、勝頼には「信」がつかず、父の「頼」の字がついているというのも、彼の少し変わった立場を表しています。
そんな勝頼がなぜ名門・武田氏の当主となったか。これはもう流れとしか言いようのない理由です。そもそも勝頼には4人の兄がいて、その意味からも家を継ぐ立場にはありませんでした。しかし当主となるはずだった一番上の兄は謀反の疑いをかけられて幽閉の身となってまもなく亡くなります。次の兄は生まれつき目が見えなかったため僧侶となり、その次の兄は幼くして死去。これで勝頼に番が回り、信玄が急死すると家督を継ぐこととなったのです。
武田の当主となった勝頼は父同様、積極的な拡張策をとりました。はじめはなかなか調子が良かったのですが、塩目が変わったのが有名な「長篠の戦」です。
長篠の戦とは、武田軍と織田信長・徳川家康連合軍の戦い。もともとは勝頼による裏切り武将の討伐戦だったのですが、織田と徳川も加わって大決戦となり、これに勝頼はこてんぱんに負けてしまったのです。兵を多数失い、有能な武将を多数失った勝頼と武田氏は、これ以後坂を転がり落ちるように弱体化します。そしてついに長篠の敗戦から7年後の天正10(1582)年3月11日、勝頼は織田や徳川等の勢力による侵攻戦に破れ、妻子とともに自害することになるのです。これにより、河内源氏の流れを継ぎ、400年ほども続いた名門・武田氏は滅亡しました。
こうして見ると勝頼は非常に無能な大名だったようにも思えますが、戦には決して弱かったわけではないようです。やはり生まれついた時代が悪かったのでしょう。勝頼に限らず、当時の織田信長に狙われて抗える勢力などなかったのですから。ただ、その信長でさえ、勝頼自害のわずか3か月後に本能寺で殺されるわけで、歴史とは複雑玄妙なものです。
最後に付け加えておくと、大名としての武田氏は滅亡しましたが、武田の血が完全に絶えたわけではありません。さきほど触れた信玄の次男の子、また、勝頼の弟の子などが生き残って、江戸時代以降も家を存続しています。

 


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