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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


4月号 2013年4月30日更新

【今月の歴史人物】
稀代の絵師の人となり
葛飾北斎
宝暦10(1760).9.21?〜嘉永2(1849).4.18


今月号のイラスト 葛飾北斎 人生描くしかあ北斎
(C) イラストレーション:結木さくら

4月の主な誕生人物
01日 親鸞/鎌倉時代の僧
01日 ビスマルク/政治家
01日 浜口雄幸/政治家
02日 アンデルセン/童話作家
02日 ゾラ/小説家
03日 アーヴィング/小説家
03日 長塚節/歌人、小説家
04日 山本五十六/軍人
05日 ホッブス/哲学者、政治学者
05日 内田魯庵/評論家、小説家
05日 カラヤン/指揮者
06日 ラファエロ/画家
06日 ミル/歴史家
06日 モロー/画家
07日 法然/平安、鎌倉時代の僧
07日 ザビエル/宣教師
07日 ワーズワース/詩人
07日 鈴木梅太郎/化学者
07日 小川未明/童話作家
08日 フッサール/哲学者
08日 岸田吟香/ジャーナリスト
09日 ボードレール/詩人
10日 ペリー/軍人
10日 グロチウス/法学者、政治家
10日 香川景樹/歌人
10日 ピュリッツアー/ジャーナリスト
10日 レーニン/革命家、政治家
11日 広瀬淡窓/江戸時代の儒者
11日 パーキンソン/医師
11日 小林秀雄/評論家
12日 マイヤーホーフ/生理学者
13日 トレビシック/発明家
14日 ホイヘンス/物理学者、天文学者
14日 トインビー/歴史家
15日 レオナルド・ダ・ビンチ/画家、彫刻家、科学者
15日 内藤鳴雪/俳人
16日 チャップリン/映画俳優、監督
16日 虎関師錬/僧
16日 ライト(ウィルバー)/発明家
16日 フランス/小説家
17日 板垣退助/政治家
17日 モルガン/実業家
18日 ズッペ/作曲家
19日 フェヒナー/心理学者
20日 犬養毅/政治家
20日 ナポレオン3世/仏皇帝
20日 ヒトラー/独裁者
20日 ミロ/画家
21日 ブロンテ(シャーロット)/小説家
21日 ウェーバー/社会学者
22日 カント/哲学者
22日 オッペンハイマー/物理学者
23日 プランク/物理学者
23日 ターナー/画家
24日 カートライト/発明家
25日 川路聖謨/江戸時代の武士
26日 シェークスピア/劇作家
26日 ドラクロワ/画家
27日 モールス/発明家
27日 スペンサー/哲学者
28日 伊藤東涯/江戸時代の儒者
28日 山田検校/筝曲家
29日 ポアンカレ/数学者
29日 田口卯吉/経済学者
30日 ガウス/数学者

嘉永2(1849)年4月18日、絵師・葛飾北斎が亡くなりました。絵に生き、描き続けたおよそ90年の生涯でした。今回はこの稀代の絵師についてご紹介しましょう。

絵師の道に入る
葛飾北斎が誕生したのは宝暦10(1760)年のこと。誕生日は9月21日ともされていますが、はっきりとしているわけではありません。
詳しい出自も確実に分かっているわけではありませんが、出生地は江戸の本所と伝わっています。ここはもともと葛飾郡というところで、これが葛飾の名の由来になったといいます。
生まれた家は川村家で、幕府御用絵師の中島家の養子になるものの、家督は中島家の実子に譲り、自分はまた川村家に戻ったという記録があります。幼名は時太郎、後に改めて鉄蔵といいましたから、本名は川村鉄蔵ということになるでしょうか。しかしここではよく知られた画号・北斎で通します。
北斎は6歳ごろから絵を描いていたと伝わります。当時の年齢は数えで表現しますから、現代でいう4、5歳くらいから絵を描いていたということになります。
また、14歳か15歳のころには版木の彫師としての修行を始めました。
当時の印刷は木版画であり、その版木制作の工程を担当する職人ということです。しかしもちろん北斎がそれを生業にしたわけではありません。18歳ごろには、浮世絵師の勝川春章のもとに弟子入りし、ついに絵師としてのキャリアをスタートさせるのです。

さて、その後、北斎は長い長い絵師人生を歩むわけですが、ここからはそんな北斎の面白いエピソードをいろいろとご紹介しましょう。

●名前マニア?
北斎が多くの画号を持っていたことはよく知られるところでしょう。勝川春章に弟子入りした際は師匠の字を貰い「春朗」と名乗りました。勝川春朗の絵はなかなか人気があったものの、33歳ごろに門下を離脱、まもなく俵屋宗理と名乗りました。これはその名から分かるように、かつての大絵師・俵屋宗達の流れを受け継ぐ名で、北斎は二代目、もしくは三代目の宗理だったとされます。
そして、その後名乗ったのが「北斎辰政(ときまさ)」の名。これは北斗七星、あるいは北極星を神格化した「北辰菩薩」にちなんだ名前でした。
その他、「為一」「戴斗」「卍」「画狂人」、変わったところでは浦賀に移住した際(何らかのトラブルにより江戸にいられなくなったためと言われます。その時北斎は70代半ば!)の偽名「三浦屋八右衛門」など、その数は30を越えます。

●北斎の家族
一般的には、北斎に家族のイメージはあまりないかもしれません。しかし北斎は2度結婚し、子供たちもいました。1度目の結婚では1男2女をもうけています。長女の阿美与(おみよ)は絵師・柳川重信と結婚しましたが、その子供(=北斎の孫)が大変で、悪事ばかりはたらいて北斎を悩ませたという話が伝わっています。
北斎は2度目の結婚でも1男2女をもうけました。この中では末っ子、つまり北斎の全ての子らの中でも末っ子にあたる阿栄(おえい)という女子が特筆すべき人物です。彼女は父・北斎の気質や技術を最もよく受け継いでいたと伝わります。一度結婚し、離婚した後は北斎と同居し、父の仕事を手伝いました。しかも、自らも葛飾応為(おうい)という画号を持ち、いくつかの質の高い絵画作品も残っているのです。この阿栄、北斎が亡くなるまで同居しましたが、その死を見取ったあとの消息ははっきりしません。

●生活に無頓着
北斎は絵師らしい奇人的な面を備えた人物だったといいます。中でも生活全般にはかなり無頓着で、食事はろくに作らず、作らないからあまり食べず、衣服も粗末でいつも汚れていたと伝わります。
そんな北斎ですから、金銭にもこだわりませんでした。質の高い作品を大量に描きましたから、ギャランティはそれなりにあったのですが、勘定もろくにせず、保管もいい加減で、日々の支払いも適当でしたから結果として金が身につかず、いつも貧乏暮らしでした。ちなみに、同居していた娘の阿栄も似たような性格で、二人して無頓着な、絵画三昧の生活を送っていたということです。

●「富嶽三十六景」
「赤富士」の名で知られる「凱風快晴」や、波濤の向こうに富士が見える「神奈川沖波裏」が含まれた連作風景版画が「富嶽三十六景」。北斎を象徴するあまりにも有名なシリーズです。しかしながら、こういった風景版画は、北斎の活動のごくごく一部でしかありません。もっと具体的に言うと、北斎の画業において、風景版画をメインに活動した期間は、70代の数年間に過ぎないのです。
ではほかにどのようなものがあるかというと、春朗時代の浮世絵や、読本の挿絵、妖怪画や美人画、「北斎漫画」に代表される絵手本など、実にさまざまでした。また、肉筆画もあり、特に晩年に多数の作品を手がけています。これらは実に個性的で、モダンで、素晴らしい迫力です。

もう5年
北斎が亡くなったのは、最初にも述べたとおり、嘉永2(1849)年4月18日のこと。89歳で、死因は老衰だったとされます。言うまでもなく大変な長寿でしたが、北斎自身は全く満足していなかったようです。老いても常に絵画を研究しており、80代にして「猫一匹満足に描けない」と涙を流して悔しがったとも伝わりますし、死に際しては「もう10年長生きさせてくれれば…もう5年長生きさせてくれれば、そうすれば真の画家になれるのに違いない」と言い残したといいます。まさに絵に生き、絵に死んだ偉大なる絵師でした。

 


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