嘉永2(1849)年4月18日、絵師・葛飾北斎が亡くなりました。絵に生き、描き続けたおよそ90年の生涯でした。今回はこの稀代の絵師についてご紹介しましょう。
絵師の道に入る
葛飾北斎が誕生したのは宝暦10(1760)年のこと。誕生日は9月21日ともされていますが、はっきりとしているわけではありません。
詳しい出自も確実に分かっているわけではありませんが、出生地は江戸の本所と伝わっています。ここはもともと葛飾郡というところで、これが葛飾の名の由来になったといいます。
生まれた家は川村家で、幕府御用絵師の中島家の養子になるものの、家督は中島家の実子に譲り、自分はまた川村家に戻ったという記録があります。幼名は時太郎、後に改めて鉄蔵といいましたから、本名は川村鉄蔵ということになるでしょうか。しかしここではよく知られた画号・北斎で通します。
北斎は6歳ごろから絵を描いていたと伝わります。当時の年齢は数えで表現しますから、現代でいう4、5歳くらいから絵を描いていたということになります。
また、14歳か15歳のころには版木の彫師としての修行を始めました。
当時の印刷は木版画であり、その版木制作の工程を担当する職人ということです。しかしもちろん北斎がそれを生業にしたわけではありません。18歳ごろには、浮世絵師の勝川春章のもとに弟子入りし、ついに絵師としてのキャリアをスタートさせるのです。
さて、その後、北斎は長い長い絵師人生を歩むわけですが、ここからはそんな北斎の面白いエピソードをいろいろとご紹介しましょう。
●名前マニア?
北斎が多くの画号を持っていたことはよく知られるところでしょう。勝川春章に弟子入りした際は師匠の字を貰い「春朗」と名乗りました。勝川春朗の絵はなかなか人気があったものの、33歳ごろに門下を離脱、まもなく俵屋宗理と名乗りました。これはその名から分かるように、かつての大絵師・俵屋宗達の流れを受け継ぐ名で、北斎は二代目、もしくは三代目の宗理だったとされます。
そして、その後名乗ったのが「北斎辰政(ときまさ)」の名。これは北斗七星、あるいは北極星を神格化した「北辰菩薩」にちなんだ名前でした。
その他、「為一」「戴斗」「卍」「画狂人」、変わったところでは浦賀に移住した際(何らかのトラブルにより江戸にいられなくなったためと言われます。その時北斎は70代半ば!)の偽名「三浦屋八右衛門」など、その数は30を越えます。
●北斎の家族
一般的には、北斎に家族のイメージはあまりないかもしれません。しかし北斎は2度結婚し、子供たちもいました。1度目の結婚では1男2女をもうけています。長女の阿美与(おみよ)は絵師・柳川重信と結婚しましたが、その子供(=北斎の孫)が大変で、悪事ばかりはたらいて北斎を悩ませたという話が伝わっています。
北斎は2度目の結婚でも1男2女をもうけました。この中では末っ子、つまり北斎の全ての子らの中でも末っ子にあたる阿栄(おえい)という女子が特筆すべき人物です。彼女は父・北斎の気質や技術を最もよく受け継いでいたと伝わります。一度結婚し、離婚した後は北斎と同居し、父の仕事を手伝いました。しかも、自らも葛飾応為(おうい)という画号を持ち、いくつかの質の高い絵画作品も残っているのです。この阿栄、北斎が亡くなるまで同居しましたが、その死を見取ったあとの消息ははっきりしません。
●生活に無頓着
北斎は絵師らしい奇人的な面を備えた人物だったといいます。中でも生活全般にはかなり無頓着で、食事はろくに作らず、作らないからあまり食べず、衣服も粗末でいつも汚れていたと伝わります。
そんな北斎ですから、金銭にもこだわりませんでした。質の高い作品を大量に描きましたから、ギャランティはそれなりにあったのですが、勘定もろくにせず、保管もいい加減で、日々の支払いも適当でしたから結果として金が身につかず、いつも貧乏暮らしでした。ちなみに、同居していた娘の阿栄も似たような性格で、二人して無頓着な、絵画三昧の生活を送っていたということです。
●「富嶽三十六景」
「赤富士」の名で知られる「凱風快晴」や、波濤の向こうに富士が見える「神奈川沖波裏」が含まれた連作風景版画が「富嶽三十六景」。北斎を象徴するあまりにも有名なシリーズです。しかしながら、こういった風景版画は、北斎の活動のごくごく一部でしかありません。もっと具体的に言うと、北斎の画業において、風景版画をメインに活動した期間は、70代の数年間に過ぎないのです。
ではほかにどのようなものがあるかというと、春朗時代の浮世絵や、読本の挿絵、妖怪画や美人画、「北斎漫画」に代表される絵手本など、実にさまざまでした。また、肉筆画もあり、特に晩年に多数の作品を手がけています。これらは実に個性的で、モダンで、素晴らしい迫力です。
もう5年
北斎が亡くなったのは、最初にも述べたとおり、嘉永2(1849)年4月18日のこと。89歳で、死因は老衰だったとされます。言うまでもなく大変な長寿でしたが、北斎自身は全く満足していなかったようです。老いても常に絵画を研究しており、80代にして「猫一匹満足に描けない」と涙を流して悔しがったとも伝わりますし、死に際しては「もう10年長生きさせてくれれば…もう5年長生きさせてくれれば、そうすれば真の画家になれるのに違いない」と言い残したといいます。まさに絵に生き、絵に死んだ偉大なる絵師でした。
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