今月ご紹介するのは、鎌倉時代前期の大規模な内乱「承久の乱」についてです。この乱が起こったのは承久3年の5月から6月にかけて。果たしてどのような乱だったのでしょうか。
乱の背景とは
承久の乱とは、後鳥羽上皇率いる朝廷側勢力が鎌倉幕府に戦いを仕掛けた内乱です。いわゆる源平の争乱を経て、それまで朝廷が握っていた政権が鎌倉幕府に移りました。そこから後鳥羽上皇が政権を取り戻そうとした、これが乱の大まかな原因ということになるでしょう。
そして、乱の起こった具体的な要因として大きかったのが、将軍・源実朝の死です。
源実朝という将軍は、武家の棟梁(トップ)でありながら、公家肌と言おうか、非常に文化系の気質を備えた人物でした。そもそもが2代将軍・頼家が政変によって将軍位を追放されたために、わずか11歳で将軍となった実朝です。幕府内の熾烈な権力争いにも馴染めず、学問や和歌を非常に好みました。そんな実朝でしたから、朝廷の後鳥羽上皇とも親しかったのです。この2人の関係は、荘園の支配などにおいてとかく対立しがちであった朝廷と幕府の融和を進める鍵でもあったと言えるでしょう。
しかし実朝が死にます。しかも公暁という人物による暗殺でした。建保7(1219)年のことです。これにより、幕府と朝廷の距離は急激に離れてゆくことになります。そして承久3(1221)年5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬(やぶさめ)ぞろい」と称して畿内各地の兵およそ1700騎を集結させ、具体的な討幕行動を開始しました。承久の乱のはじまりです。
異色の上皇、後鳥羽上皇
ここで、朝廷軍を率いた後鳥羽上皇についても触れておきましょう。その誕生は治承4(1180)年7月14日。父は高倉天皇、祖父は後白河天皇です。
天皇位についたのは寿永2(1183)年のこと。源平の争乱の真っ只中の時期です。当時は平家が三種の神器とともに都を落ちており、神器のないままという異例の即位でした。
ただ、即位はしたものの、当時は後白河上皇の院政時代で、後鳥羽天皇が具体的に権力を握ったわけではありません。後鳥羽天皇が具体的に政治を行うのは後白河上皇の死後。譲位し「後鳥羽上皇」となってからのことです。
さて、後鳥羽上皇の政治は大変積極的なもので、除目(人事)や儀礼などにはどんどん関与し、幕府に対しても是々非々の姿勢で臨みました。むろん、上皇・天皇としては大変異色の姿勢と言えるでしょう。そんな上皇でしたから、将軍・実朝の死をきっかけとして、乱へと踏み込んでいったのはある意味必然の流れだったのかもしれません。
とは言え、後鳥羽上皇は政治一辺倒だったというわけでもありません。歌人としても一流、「新古今和歌集」の編集を命ずるなど、文化人としても大変な実績を残していることも書き添えておきます。
揺れうごく幕府
後鳥羽上皇の挙兵を知ると、幕府もさっそく対応を開始します。何しろ、当時は武家の治世がスタートして30年程度しか経っていない頃です。朝廷の権威はまだまだ強力であり、それと戦うなどということは非常に畏れ多いことでした。乱の発生にあたり、幕府軍の総大将となる北条泰時(後の3代執権)などは「たとえ朝廷側が間違っていても、幕府討伐の勅令が出ているのだから降伏するべきである」と言っており、これが多くの武士らの率直な気持ちを表しています。
しかし、ここで行われるのが、有名な「北条政子の演説」なのです。(少し補足しておくと、実朝の死後、幕府の指揮はひとまず北条政子(源頼朝の妻、実朝の母)が執っており、執権の北条義時(政子の弟)がそれを助けるという形になっていました)
政子は、源頼朝が武士の地位や生活を引き上げてくれたこと、その恩義を切々と武士らに訴えました。すると、動揺していた武士たちの心が一つになった…と伝わっています。中世史を彩る名場面です。
ともかく、幕府は上皇挙兵から間もない5月22日、京へ向けて兵を差し向けました。先ほども触れたとおり、総大将は北条泰時。しかし軍勢はわずか18騎でした。もはや軍勢というよりただの集まりといった数ですが、これがなんと、京に近づくにつれて膨れ上がり、最終的には19万騎にもなるのです。対する上皇側の軍勢はおよそ2万数千騎。勝負は激突前から明らかだったと言えるかもしれません。実際、戦いは10日間ほどで決着しました。もちろん幕府側の圧勝です。
乱が終わって…
その後、乱に関わった人々への処分が行われました。上皇側に加わった公卿や武士たちはその多くが処刑されました。後鳥羽上皇の息子たちである土御門上皇と順徳上皇それぞれ佐渡と土佐に流され、後鳥羽上皇自身も隠岐に流されます。しかも上皇や上皇方の有力者が持っていた所領は没収され、幕府方の武士たちに分配されたのです。また、乱をきっかけに京都に朝廷の監視役「六波羅探題」が置かれました。
こうして承久の乱は終結しました。討幕を狙ったものでしたが、その企画は木っ端微塵に打ち砕かれ、この後は、幕府の朝廷に対する絶対的優位が確立されるのです。ハードランディングではありましたが、結果として、幕府がその支配力を磐石のものとすることになった出来事でした。
後鳥羽上皇のその後について少しだけ触れておきます。隠岐に流される直前に上皇は出家しました。隠岐に入ると、和歌と仏教に心を慰めるわびしい日々を送ったと伝わります。一時、京都へ戻る計画も持ち上がったようですが、執権であった北条泰時はそれを許しませんでした。そして、乱のおよそ18年後、ついに上皇は隠岐で没したのです。
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