寛永12(1635)年6月21日、改訂武家諸法度(通称「寛永令」)が発布されました。この中で、一つの「制度」としてはっきり確立したのが「参勤交代」です。今月は、ある意味、江戸幕府の支配体制を象徴するとも言える「参勤交代」のあれこれをご紹介しましょう。
参勤交代とは?
「参勤交代」とは、簡単に言えば、諸国の大名が定期的に江戸へ通ってくるという仕組みです。期間は原則1年おきでした。
この仕組み、起源はさまざまに言われていますが、具体的な形式としてあらわれてきたのは豊臣政権のころです。豊臣秀吉は大名たちに対し、自らの居城の近くに屋敷を与えました。大名たちはそこを一つの拠点として、領国から秀吉のもとに通ってきた(参勤した)のです。そうすることが秀吉への服属の証となり、時代の秩序となったわけです。また、大名の妻子はその屋敷に居住しました。
江戸時代に入ると、同じようなことを徳川家康が行いました。そして、三代将軍・家光の時代にはっきりと制度化・義務化されて「参勤交代」となったのです。
大名の弱体化が目的?
「参勤交代」の内容は、先ほども少し触れたとおり。各地の大名は1年おきに江戸へと通う(参勤する)こと。そして、大名の妻子は江戸に居住することです。この際の費用、つまり道中の旅費とか、江戸での生活費は各大名が負担しました。
参勤交代の目的ですが、この費用負担に着目し「大名にお金を使わせることで弱体化させ、幕府への反乱を防いだ」とする説明がよくなされます。確かに参勤交代にはそのような面もありました。しかし、それがメインというのはどうも言い過ぎのようです。弱体化どころか、幕府は各大名に対して、参勤交代の際の人数を減らすよう求めてさえおり、費用負担による大名の弱体化は、どちらかというと意図せずして起こったことに近かったようです。
では、参勤交代の主な目的は何かというと、これはやはり、武士としての「主従関係の確認」にありました。各地の大名が、わざわざ国許から、それも定期的に将軍へと会いに来る(拝謁する)。それが主(=将軍)と家来(=大名など)の関係を確認させ、秩序の維持につなげていたというわけです。
「大名行列」はつらいよ
大名とは言うまでもなく「武士」であり、参勤交代には、有事に備えての軍役という意味合いもありました。ですから、江戸への参勤には、軍勢を連れてゆく必要があります。そこで構成されたのが、いわゆる「大名行列」です。本来、行列の規模は大名の石高によって決まりがありました。しかし、大名行列はそれ以上に規模が大きくなる傾向にありました。江戸期は平和の時代です。武士(=軍人)が実力を示す場がない以上、そのパワーは、さまざまな場面における家格の誇示に向かい、その向かい先の一つが「大名行列」になったと言えるでしょう。これが各藩の財政を圧迫しました。
大名の石高がさまざまですから、大名行列の規模もさまざまです。数十人規模を連れる参勤交代もあれば、数千人規模のものもあります。日本最大の大名だった加賀前田家・100万石ともなると、行列の規模は最盛期で4000人にもなったといいますから、凄まじいことです。
前田家の場合は別格ですが、例えば2〜300人程度の行列で、2〜30日程度の旅程であっても、その費用負担はかなりのものになることは容易に分かります。そのため、田舎道を通る時は最小限の構成にして、町や大きな街道を通る場合は臨時に人を雇って行列を大きく見せる…といった「裏技」も使われたという話も伝わっているほどです。いや、そもそも大名行列には藩士(武士)だけではなく、臨時雇いの人足も多く含まれるのが当たり前の形でしたから、それらを状況に応じて増減するのも自然のことだったのでしょう。
ちなみに、参勤交代にかかる費用は、家来の宿泊費だけではありません。この時代独特の旅費として大きかったのが「川越賃」。つまり、道中にある川を渡るために払うお金。これが馬鹿になりませんでした。さらには、幕府の役人などへの贈り物代などもかなりかかったといいます。ほかに、他藩を通過する時に、もてなしたり、もてなされたりする費用まで…とにかく、参勤交代費用の捻出には、各大名が頭を痛めたのです。
参勤交代の意外な効用
参勤交代には意外な効用もありました。参勤交代とは、簡単に言うと数百〜数千人の集団がいくつもいくつも、定期的に国内を練り歩くイベントです。つまり、各地への「経済効果」が莫大なものになるのです。日本中の街道や宿場町は、参勤交代によって整備されたと言っても過言ではないでしょう。また、江戸の文化が各地に伝わるということも起こりました。文化面での効果も大きかったということです。
参勤しなかった大名も
参勤交代は大名にとっての義務でした。が、実は参勤交代をしない大名もいました。例えば、江戸の近くに領地がある譜代(関ヶ原の戦以前からの徳川家臣)や親藩(徳川の分家大名)大名のいくつかは、参勤どころか常に江戸に詰めていました。
ほか、遠隔地の対馬藩(現在の対馬)や松前藩(現在の北海道南部)はそれぞれ3年に1度、5年に1度の参勤であるとか、江戸での在住期間が短い大名があるとか、イレギュラーな参勤交代は案外ありました。
また、緊急事態が起こったときなども、臨時で参勤交代が免除されました。領国の飢饉とか、藩主の病気、代替わりなどがそれにあたります。
参勤交代の終焉
享保の改革の時代に一時的な変更があったものの、参勤交代は江戸時代を通して行われました。それが緩んだのは幕末のこと。文久2(1862)年に行われた政治改革により、1年おきの参勤が、3年に一度へと緩和されたのです。大名妻子の江戸在住もなしになりました。2百数十年ぶりの大変更です。その後、幕府は再び参勤交代を元の姿に戻そうとしますが、大名らはそれに従おうとせず、かといって幕府にはそれを咎める実力ももうありませんでした。やがて幕府消滅に至り、これによって参勤交代は完全に歴史の中から姿を消すのです。
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