今月ご紹介するのは明治時代の政治家、大久保利通です。明治初期の政府は彼によって立ち上がり、彼が動かしていたと言っても過言ではないほどの功労者なのですが、もうひとつ影が薄い面があるかもしれません。同郷の大物・西郷隆盛の人気があまりにも高いからでしょうか。
苦難の若年時代
大久保利通は文政13(1830)年の8月10日、薩摩藩の下級藩士の家に長男として誕生しました。やがて一家は下加治屋町という近くの町に引っ越しますが、下加治屋町に住んでいたのが西郷隆盛です。二人は歳も近く(西郷が2歳上)、家の身分も同じだったため、幼馴染としてともに成長しました。ちなみにこの下加治屋町では、大山巌(西郷隆盛の従兄弟)や東郷平八郎という近代史上に残る軍人も生まれ育っています。
利通は14歳で元服し、16歳で藩に出仕します。しかし、20歳の時、
大久保家を苦難が襲います。当時、薩摩藩では藩主の後継争いが起こっていました。後に藩主となる島津斉彬と、幕末期に「藩主の父」として権力をふるう島津久光の争いです。これを「お由羅騒動」というのですが、利通の父がこれに連座して島流しにされてしまうのです。すでに出仕していた利通も当然無事ではなく、役目を解かれ、謹慎という処分を受けます。これによって大久保家は生活に大変苦労することになりました。この時の大久保家を援助したのが他でもない西郷隆盛で、以後二人はますます友情を深めたともいいます。
騒動後、斉彬が藩主になると利通も謹慎から復帰します。また、西郷らとともに政治グループを作り(精忠組)、英明であった斉彬のもとで積極的に活動を始めるのです。
維新前夜の大活躍
しかし斉彬は藩主になっておよそ7年後に急逝します。斉彬の右腕として活躍していた西郷も立場を失い、潜伏生活に入ります。この間、グループを支えたのは利通でした。この後、斉彬の後の藩主・忠教とその父・久光に接近して力を得るのです。このときとった手法は、まず久光の囲碁相手と接触し(その人物は精忠組メンバーの兄だった)、彼を通して久光と意見書をやりとりするというものでした。この目論見は見事当たり、利通らは藩政の中枢で用いられるようになってゆくのです。何やら策士らしい話ではないでしょうか。
さて、この後の動きは幕末の政局と絡み、大変ややこしくなってしまうので、ごく端的に触れるにとどめましょう。藩の中枢に足場を得た利通らは、やがて復帰してきた西郷とともに倒幕をめざすようになってゆきます。特に明治直前における利通の働きは凄まじく、討幕の密勅の準備や王政復古の計画、新政府のアウトライン立案など重要な役割をこなしています。むろん西郷の方も、戦闘や交渉事に駆け回っていたのはよく知られていることでしょう。両者はまさに薩摩藩の両輪として活躍していたのでした。
初期新政府の柱
明治維新がなると、利通は新政府のまさに中心的立場を担うことになりました。明治2(1869)年には参議となり、やがて大蔵卿や内務卿にもなり、廃藩置県などの重要政策を遂行しました。政策だけではなく、立ち上げ間もない政府そのものの整備も利通の重要な仕事でしたし、「殖産興業」という国家経営の方向付けを行ったのも利通だったのです。この時期は内閣も総理大臣もないのですが、事実上の大久保利通政権の時代と言われます。
一方、大久保にとっておそらく辛かったであろう出来事もこの時に起こりました。それは西郷との対立です。明治4年、大久保は視察のために欧米を回りました。いわゆる「岩倉使節団」です。このとき、日本では武力によって朝鮮半島を開国させようという「征韓論」が盛り上がっていました。利通はこれに反対で、帰国後、征韓論を支持する政府メンバーがいっせいに下野するということが起こったのです(明治六年の政変)。この中に留守政府を仕切っていた西郷が含まれていました。この政変以後、大久保利通と西郷隆盛、両者の道が交わることはなかったのです。
相次いで死す
明治10年、鹿児島において内乱が勃発しました。西南戦争といいます。この指揮官として担ぎ上げられたのが、誰ならぬ西郷隆盛でした。
結果は政府側の勝利に終わり、西郷は戦死します。戦中、利通は西郷との面会を望んだといいます。自分が説得すれば西郷を助けられると思ったのでしょうか。しかしその願いは叶いませんでした。あまりに危険と政府内で制止されたからです。
そしてその翌年、利通も唐突にこの世を去ります。不平士族による暗殺でした。東京・紀尾井坂で起こったので「紀尾井坂の変」といいます。47歳でした。こうして明治維新を導いたふたつの虚勢は相次いで去り、それとともに日本の近代政治は、伊藤博文らを中心とする新たなステージへと移行するのです。
|