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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


8月号 2013年8月31日更新

【今月の歴史人物】
影の薄い?大功労者
大久保利通
文政13(1830).8.10〜1878.5.14


今月号のイラスト大久保利通 多くぼ苦労とじみちな努力
100回突破ありがとうございます。
(C) イラストレーション:結木さくら

8月の主な誕生人物
01日 ラマルク/博物学者
01日 団琢磨/実業家
01日 室生犀星/小説家
01日 メルビル/小説家
02日 三浦梅園/江戸時代の学者
02日 速水御舟/画家
03日 新戸辺稲造/教育者
03日 豊臣秀頼/武将
04日 吉田松陰/幕末の教育者、志士
04日 シェリー/詩人
05日 玄宗/唐王朝第六代皇帝
05日 モーパッサン/小説家
06日 フレミング/細菌学者
06日 テニスン/詩人
07日 リッター/地理学者
07日 司馬遼太郎/小説家
08日 ディラック/物理学者
09日 源実朝/鎌倉幕府三代将軍
09日 ドライデン/詩人
10日 大久保利通/政治家
11日 亀井昭陽/江戸時代の儒者
11日 幣原喜重郎/政治家
12日 シュレーディンガー/物理学者
13日 横井小楠/幕末の儒学者
14日 シートン/動物学者、作家
15日 ナポレオン/軍人、政治家
15日 山東京伝/戯作者
15日 高島秋帆/砲術家、兵学者
16日 山鹿素行/江戸時代の儒者
16日 スタンリー/生化学者
17日 クロケット/政治家、開拓者
18日 最澄/平安時代の僧
19日 ライト(オービル)/発明家
20日 高杉晋作/幕末の志士
21日 ビアズリー/画家
22日 足利義満/室町幕府三代将軍
22日 ドビュッシー/作曲家
23日 三好達治/詩人
24日 平田篤胤/江戸時代の国学者
24日 若山牧水/歌人
25日 榎本武揚/政治家
26日 ウォルポール/政治家
27日 ヘーゲル/哲学者
28日 ゲーテ/詩人、小説家
28日 杉村楚人冠/ジャーナリスト
29日 メーテルリンク/劇作家、詩人
29日 コルベール/政治家
30日 ラザフォード/物理学者
30日 ファントホッフ/化学者
31日 鏑木清方/画家

今月ご紹介するのは明治時代の政治家、大久保利通です。明治初期の政府は彼によって立ち上がり、彼が動かしていたと言っても過言ではないほどの功労者なのですが、もうひとつ影が薄い面があるかもしれません。同郷の大物・西郷隆盛の人気があまりにも高いからでしょうか。

苦難の若年時代
大久保利通は文政13(1830)年の8月10日、薩摩藩の下級藩士の家に長男として誕生しました。やがて一家は下加治屋町という近くの町に引っ越しますが、下加治屋町に住んでいたのが西郷隆盛です。二人は歳も近く(西郷が2歳上)、家の身分も同じだったため、幼馴染としてともに成長しました。ちなみにこの下加治屋町では、大山巌(西郷隆盛の従兄弟)や東郷平八郎という近代史上に残る軍人も生まれ育っています。
利通は14歳で元服し、16歳で藩に出仕します。しかし、20歳の時、
大久保家を苦難が襲います。当時、薩摩藩では藩主の後継争いが起こっていました。後に藩主となる島津斉彬と、幕末期に「藩主の父」として権力をふるう島津久光の争いです。これを「お由羅騒動」というのですが、利通の父がこれに連座して島流しにされてしまうのです。すでに出仕していた利通も当然無事ではなく、役目を解かれ、謹慎という処分を受けます。これによって大久保家は生活に大変苦労することになりました。この時の大久保家を援助したのが他でもない西郷隆盛で、以後二人はますます友情を深めたともいいます。
騒動後、斉彬が藩主になると利通も謹慎から復帰します。また、西郷らとともに政治グループを作り(精忠組)、英明であった斉彬のもとで積極的に活動を始めるのです。

維新前夜の大活躍
しかし斉彬は藩主になっておよそ7年後に急逝します。斉彬の右腕として活躍していた西郷も立場を失い、潜伏生活に入ります。この間、グループを支えたのは利通でした。この後、斉彬の後の藩主・忠教とその父・久光に接近して力を得るのです。このときとった手法は、まず久光の囲碁相手と接触し(その人物は精忠組メンバーの兄だった)、彼を通して久光と意見書をやりとりするというものでした。この目論見は見事当たり、利通らは藩政の中枢で用いられるようになってゆくのです。何やら策士らしい話ではないでしょうか。
さて、この後の動きは幕末の政局と絡み、大変ややこしくなってしまうので、ごく端的に触れるにとどめましょう。藩の中枢に足場を得た利通らは、やがて復帰してきた西郷とともに倒幕をめざすようになってゆきます。特に明治直前における利通の働きは凄まじく、討幕の密勅の準備や王政復古の計画、新政府のアウトライン立案など重要な役割をこなしています。むろん西郷の方も、戦闘や交渉事に駆け回っていたのはよく知られていることでしょう。両者はまさに薩摩藩の両輪として活躍していたのでした。

初期新政府の柱
明治維新がなると、利通は新政府のまさに中心的立場を担うことになりました。明治2(1869)年には参議となり、やがて大蔵卿や内務卿にもなり、廃藩置県などの重要政策を遂行しました。政策だけではなく、立ち上げ間もない政府そのものの整備も利通の重要な仕事でしたし、「殖産興業」という国家経営の方向付けを行ったのも利通だったのです。この時期は内閣も総理大臣もないのですが、事実上の大久保利通政権の時代と言われます。
一方、大久保にとっておそらく辛かったであろう出来事もこの時に起こりました。それは西郷との対立です。明治4年、大久保は視察のために欧米を回りました。いわゆる「岩倉使節団」です。このとき、日本では武力によって朝鮮半島を開国させようという「征韓論」が盛り上がっていました。利通はこれに反対で、帰国後、征韓論を支持する政府メンバーがいっせいに下野するということが起こったのです(明治六年の政変)。この中に留守政府を仕切っていた西郷が含まれていました。この政変以後、大久保利通と西郷隆盛、両者の道が交わることはなかったのです。

相次いで死す
明治10年、鹿児島において内乱が勃発しました。西南戦争といいます。この指揮官として担ぎ上げられたのが、誰ならぬ西郷隆盛でした。
結果は政府側の勝利に終わり、西郷は戦死します。戦中、利通は西郷との面会を望んだといいます。自分が説得すれば西郷を助けられると思ったのでしょうか。しかしその願いは叶いませんでした。あまりに危険と政府内で制止されたからです。
そしてその翌年、利通も唐突にこの世を去ります。不平士族による暗殺でした。東京・紀尾井坂で起こったので「紀尾井坂の変」といいます。47歳でした。こうして明治維新を導いたふたつの虚勢は相次いで去り、それとともに日本の近代政治は、伊藤博文らを中心とする新たなステージへと移行するのです。

 



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