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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


10月号 2013年10月31日更新

【今月の歴史人物】
江戸のはじめの大規模一揆
寛永14(1637).10.25


今月号のイラスト 天草四郎時貞 天草氏ろう城に幸福なし
(C) イラストレーション:結木さくら

10月の主な誕生人物
01日元田永孚/儒学者
02日ガンジー/インド独立指導者
02日ハル/外交官、政治家
03日津田左右吉/歴史学者
04日ミレー/画家
05日リュミエール/発明家
06日マテオ・リッチ/宣教師
06日デデキント/数学者
07日ボーア/物理学者
08日クレッチマー/精神医学者
09日セルバンテス/小説家
09日サン・サーンス/作曲家
10日ヴェルディ/作曲家
10日大山巌/軍人
11日モーリアック/小説家
12日マクドナルド/政治家
13日小林多喜二/小説家
14日陸羯南/ジャーナリスト
14日アイゼンハワー/政治家、軍人
14日マンスフィールド/小説家
15日ニーチェ/哲学者
15日ヴェルギリウス/詩人
15日山本権部衛/政治家、軍人
16日阿部正弘/江戸時代の老中
16日黒田清隆/政治家
17日サン・シモン/思想家
18日ベルグソン/哲学者
19日マンフォード/思想家
20日島津久光/江戸時代の薩摩藩主の父
20日古賀精里/儒学者
20日ランボー/詩人
21日江戸川乱歩/小説家
21日徳川吉宗/江戸幕府八代将軍
21日ノーベル/化学者
22日リスト/ピアニスト、作曲家
22日牧野伸顕/政治家
23日花岡青洲/江戸時代の医師
23日西園寺公望/政治家
24日レーウェンフック/科学者
25日ピカソ/画家
25日シュトラウス(ヨハン)/作曲家
25日ビゼー/作曲家
25日徳富蘆花/小説家
26日モルトケ/軍人
27日齋藤実/政治家、軍人
27日ルーズベルト(セオドア)/政治家
27日パガニーニ/作曲家
28日嘉納治五郎/柔道家、教育者
29日井伊直弼/江戸時代の大老
30日上田敏/詩人、英文学者
31日蒋介石/政治家、軍人
31日ローランサン/画家

今月ご紹介するのは、江戸時代初期に起こった大規模な一揆「島原の乱」。「島原天草一揆」とも呼ばれます。キリスト教徒(キリシタン)による反乱というイメージが強くありますが、それは一つの要素であって、実際はさまざまな要因が絡み合って起こり、進行したものだったとされます。

島原と天草
島原藩とは現在の長崎県にあった藩です。かつてはキリシタン大名・有馬晴信が支配しており、キリスト教の盛んな土地柄でした。江戸期に入ると松倉重政という大名が治めるようになりましたが、この殿様は領民から重い年貢を取り立てる殿様でした。さらに、キリスト教の信者にたいする厳しい弾圧も行いました。そして、これらの政策は子の勝家にも継承されました。この勝家が乱当時の藩主です。
一方、天草は島原のすぐ南方にある諸島です。かつてはキリシタン大名・小西行長の領地で、島原同様キリスト教信仰のさかんな土地柄でした。当時は唐津藩の支配下にあり、藩主の寺沢堅高は領民たちから厳しく年貢を取り立てていました。また、キリスト教徒への弾圧も行われていました。島原とよく似通った状況だったことは言うまでもありません。

ついに蜂起する
島原と天草において領民たちが苦しんでいた折も折、当地を襲ったのが凶作でした。ここにおいて領民たちの我慢も限界に達し、一揆の機運はいよいよ高まりました。ここで登場するのが、かの「天草四郎時貞」です。
天草四郎時貞。本名は益田四郎と伝わります。先ほど触れた小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子で、キリシタンだったと伝わる人物です。当時16歳ほどの少年でしたが、何かカリスマ的な魅力を持っていたらしく、天草の一揆勢力のなかでリーダーとして祭り上げられるのです。
そしてついに一揆は勃発します。まず発端は島原。領民とのいざこざから代官が打ち殺されるという事件が発生しました。これが寛永14(1637)年10月25日のこと。ここから領民の蜂起が始まります。さらに、これに呼応する形で天草の領民も、天草四郎時貞を中心として蜂起するのです。
この蜂起の際、団結の核として用いられたのがキリスト教でした。一揆に参加した者は純粋なキリシタンだけではなく、半ば強制的にキリスト教信者にさせられた者もいたとされます。島原の乱が、単なるキリシタン反乱ではなく、かといってただ苛政に抵抗したものでもない、複雑な面を持つことを示すひとこまでしょう。
ともかく、これより反乱軍は火の燃え上がるように勢いを増してゆきます。いよいよ幕府が鎮圧に乗り出すということになりますが、反乱勢力はその報に接し、「原城」への籠城を決定します。原城はかつて有馬氏が築いた城で、当時は廃城だったとも、ほぼ機能を残した城だったともされます。この時点で一揆勢力は、3〜4万人の規模にまで膨れ上がっていました。

幕府の対応
地方の大名らによる混成軍を率いて戦いましたが、一揆勢を討つことができませんでした。
続いて派遣されたのは、老中・松平信綱です。「知恵伊豆」のニックネームで時代劇ファンにはおなじみの人物でしょうか。なお、信綱が派遣される直前、重昌は無理な総攻撃を実行して討ち死にしました。功を焦ってのものだったとも、討伐失敗の責任を取るための自殺的突撃だったとも言われます。
さて、攻撃にあたり、信綱が選んだ作戦は「兵糧攻め」でした。つまり、城を大軍勢で囲み、砲撃等を加えつつ待ち、一揆勢の精神的消耗や食料の消費を狙うのです。
この作戦は当たり、原城の食料は間もなく尽きました。兵糧攻めの間、食べるもののなくなった城内の様子は凄まじいものだったともいいます。しかしそれでも、一揆勢は降伏することはありませんでした。
幕府軍が総攻撃を実施したのは2月末のことです。もはや一揆勢に抵抗する力は残っておらず、そもそも兵力差が圧倒的だったこともあり、原城はあっけなく落ちました。

始末
乱後の始末は以下の通りです。まず、一揆勢については大半が死亡しました。どれくらいの死者が出たかには諸説あり、乱に参加した数万人のほぼ全てが戦闘か処刑によって死に、証言を取るためにたった1人が生かされただけだったとも言われます。その一方で、乱のさなかに逃亡した者があったり、生きて捕らえられた者も相当数あったとも言われます。また、あの天草四郎時貞は、総攻撃の際に戦死しました。
苛政により乱の原因を作った松倉勝家は斬罪となりました。武士の死罪は通常「切腹」なのですが、それすら許されない、極めて厳しい処罰だったと言えます。寺沢堅高の方は天草の領地を没収されました。のちに自害していますが、これは精神に異常をきたしたためとも言われます。

こうして島原の乱は終結しました。戦乱の時代から、管理された平和の時代へと移り変わる時代に起こった、複雑で大きな一揆。それは、時代のひずみということだったのかも知れません。これを最後に、幕末まで日本で大きな内乱は起こることはありませんでした。

 



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