今月ご紹介するのは、フランス王妃マリー・アントワネットです。日本でもよく知られた存在ですが、贅沢三昧、わがまま勝手な人物だったというイメージだけが先行しているかもしれません。もちろんそのような部分もありましたが、それだけの人物でもありませんでした。
ハプスブルク家の娘
マリー・アントワネットが生まれたのは1755年11月2日。日本は江戸時代で、かの八代将軍・徳川吉宗がこの世を去り、その息子の徳川家重が将軍位にあったころです。
マリー・アントワネットの出身地はオーストリアです。フランス人というイメージが強いのですが、これは全くイメージだけの話です。
当時のオーストリアは今のオーストリアとは別物と考えねばなりません。当時のヨーロッパ地図を見れば一目瞭然ですが、広大な領地を持つヨーロッパ有数の強国であり、ハプスブルク家という名家が統治していました。
マリー・アントワネットはそんなハプスブルク家の11番目の女の子として誕生しました。母はマリア・テレジア、父は神聖ローマ皇帝フランツ1世です。マリー・アントワネットとはフランス語読みであり、ドイツ語ではマリア・アントニアといいます。
マリア・テレジアの名は聞いたことがある方が多いでしょう。ハプスブルク家に生まれ、オーストリアの領地を継承し、幾多の戦争を戦い抜いてその国力を維持・発展させた「女帝」です。父は神聖ローマ皇帝と書きましたが、マリア・テレジアに見初められて結婚した小国の公子にすぎない人物でした。皇帝の地位もマリア・テレジアによってもたらされたもので、政治家としての能力はほとんどなかったといいます。
マリア・テレジアはとてつもない女傑であったものの、子育てに関しては案外家庭的でした。マリア・アントニア、すなわち後のマリー・アントワネットもそのような環境で育ちました。音楽鑑賞をしたり、家族で狩りに出かけたり、姉妹たちとバレエを演じたり、楽しい少女時代を送ったのです。
しかしそんな時代がいつまでも続くわけではありません。やがてマリア・アントニアに結婚話が持ち上がります。名家の常といいましょうか、オーストリアとフランスの関係を深めるための政略結婚でした。相手はフランス王太子のルイ・オーギュスト、のちのフランス国王ルイ16世です。
結婚式は彼女が14歳の時。ベルサイユ宮殿で盛大に執り行われました。
フランスでの生活
かくしてフランスに嫁いだマリア・アントニアはマリー・アントワネットとなり、フランス王太子妃としての生活を送ることになります。
まず彼女を襲ったトラブルは、当時のフランス国王・ルイ15世の愛妾であったデュ・バリー夫人との対立です。愛妾といっても秘された存在ではなく、公妾として宮廷で大きな力を持っていた人物です。しかしマリー・アントワネットは妾のような存在を嫌う性格でした(これは母マリア・テレジアの影響だったともいいます)。この対立はやがてマリー・アントワネットから折れて、とりあえず手打ちになるのですが、フランスでの彼女の株を下げる騒動でした。
マリー・アントワネットが19歳になったころ、ルイ15世が亡くなり、夫のルイ・オーギュストが即位、国王ルイ16世となります。これにより、マリー・アントワネットもフランス王妃となるわけです。
さて、冒頭でも触れましたが、マリー・アントワネットのイメージの最たるものが、贅沢者、わがまま勝手です。これは事実で、まず彼女は大変な浪費家でした。賭け事が好きで、舞踏会が好きで、おしゃれも大好きで、これらのことに大変な費用を注ぎ込みました。
さらに、わがままというのも事実です。彼女はフランス宮廷のしきたりを嫌い、それらを変更したり、無視しました。お気に入りの家来を側に置き、気に入らない人物を追い落としたりもしたのです。
しかしながら、これらのことは別の面から見ることも出来ます。まず浪費のことですが、彼女の浪費は国家的な視点で考えると、それほどでもなかったとも言われています。つまり、巷で言われるような、国家財政に影響を与えるほどの浪費ではなく、王妃という立場なりの浪費であったということです。
お気に入りの家臣を置く、そうでない者を冷遇するというのも、古今東西、王妃にはよくある話だったのではないでしょうか。彼女が無視したというしきたりにしても、旧弊といっていいものが多く、理由のないことではなかったといいます。
ではなぜ彼女のイメージが悪化したかというと、それは彼女が「よそ者」だったからということがあったようです。いきなりよそからやってきたお姫様が派手に振舞ったら、恨みや妬みを貰うことも多かったでしょう。彼女のイメージや評判も、地元でわがままをするよりもっと加速度的に落下したはずです。振る舞いそのものより、他国の宮廷で自らを抑えなかったということこそが、彼女の犯したミスだったのかもしれません。
革命と処刑
マリー・アントワネットが34歳の年に起こったのがフランス革命です。民衆が王政を打ち倒すために立ち上がったという、世界史上の一大事件です。このころにはマリー・アントワネットとルイ16世の間にも子がありましたが、やがて一家で捕らえられ、タンプル塔という施設に閉じ込められました。
その後の一家の運命は悲惨でした。まず国王ルイ16世が早々に死刑判決を下され、処刑されました。幼かった息子は幽閉の身のまま、むごい扱いをされたあげく、衰弱して死にました。
マリー・アントワネットも裁判を受けました。国家財政を浪費したこと、また、ここでは触れませんでしたが、革命の際に逃亡を計画したことや外国と通じたことなど、さまざまな罪に問われたのです。彼女はその全てを否認しましたが、しかし革命勢力にとって、浪費家でわがまま勝手、王家の罪のアイコンとも言えるマリー・アントワネットを処刑せずに済ませるわけにはいきませんでした。また、これらの罪も事実無根というわけでもなく、結局彼女は処刑されることになったのです。
こうしてマリー・アントワネットが処刑されたのは1793年10月16日のこと。最後まで取り乱しもせず、毅然と死を迎えたと伝わります。
最後に一つ。マリー・アントワネットが発したとされる有名な言葉について。
革命前夜、マリー・アントワネットは、飢えてパンを欲する民衆を見て「パンがなければお菓子を食べればよい」と言ったと伝わります。これはどうやら全く別の話を由来とするセリフで、彼女はこのようなことを言っていないといいいます。今やよく知られている「ぬれぎぬ」でしょうか。
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