鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府とあった中で、暗殺された将軍というのは何人かいます。その中でも華々しい、といっては語弊があるでしょうが、ともかく最も武士らしい最期を迎えたのは、今月ご紹介する室町幕府13代将軍、足利義輝かもしれません。この義輝、「剣豪将軍」という異名でも知られる、なかなか変わった将軍でした。
子供時代
足利義輝が誕生したのは天文5(1536)年3月10日のことです。時代としては戦国時代の中期から後期にさしかかるあたり。ちなみに、かの織田信長が生まれたのが天文3年ですから、まさに同世代の人物ということになります。
父は室町幕府12代将軍・足利義晴です。このころの室町幕府は弱体化が著しく、中央では将軍や重臣が入り乱れて権力争いに明け暮れていました。
この頃の幕府における実力者は、管領・細川晴元。12代義晴はこの晴元と対立、たびたび京都を追われます。と、書いてしまうと簡単ですが、将軍がその本拠地をたびたび追われるというのですから、何ともすごい時代でした。
さて、天文15(1546)年12月20日、義晴の息子、すなわち義輝が将軍となります。その場所も京都ではなく、逃げた先の近江。義輝はわずかに10歳という年齢でした。ちなみに、この時のかれは「義輝」という名ではなく「義藤」という名だったのですが、ややこしくなるのでここでは義輝で通すことにします。
さて、将軍にはなりましたが、10歳の子供である義輝には政務を執ることなどできません。そこは父の義晴が代わりに動くことになります。
権力争いの混沌
ではこのころの義晴はというと、細川氏一門の一人である細川氏綱という人物と結び、晴元の追い落としに動いていました。そして、ここからしばらく、義輝の周辺では、もはや混沌としか言いようのない大変な権力争いが続きます。詳しく述べることは避けますが、最終的に三好長慶という晴元の重臣が最高権力を握り、「三好政権」とも言われるほどの勢力を誇ることになります。そして、晴元は没落し、氏綱が傀儡としての管領に就任、父・義晴は権力争いの中で病死しました。そして義輝は長慶と和睦することで、その地位を確かなものとします。それが永禄元(1558)年のこと。義輝は22歳の青年になっていました。ここから義輝は将軍として、その権威回復に向けて動き出します。
義輝の「政治」
さて、義輝の行ったこととは具体的になんだったのでしょうか。それは以下のようなものでした。
●大名の争いの仲裁
義輝が積極的に行ったことの一つが、大名間の争いの仲裁でした。有名なところではまず武田晴信(信玄)と長尾景虎(上杉謙信)の講和を実現させました。さらに、毛利元就と大友義鎮(宗麟)の講和をとりもったのも義輝でした。
●大名たちへの懐柔策
世は戦国。強い力を持つ戦国大名たちを懐柔することも、義輝は忘れませんでした。新興の織田信長や上杉謙信などに謁見を許したり、大友氏や毛利氏に守護職を与えたりしています。
また、自らの名の一字を与えるということも行いました。例えば、通人にして戦国大名であった細川幽斎の名は「藤孝」といい、これは義輝のはじめの名である「義藤」の藤の字を貰い受けています。また、毛利元就の孫で豊臣五大老の一人、関ヶ原の戦いにおいては西軍総大将を務めた毛利輝元はまさに義輝の「輝」の一字を貰い受けた人物です。
これら大名との交流が政治といわれても、現代の目からはぴんとこないかも知れません。しかし、当時にあってはこれこそ政治。これらの積み重ねによって将軍の権威を復活させ、ひいては後ろ盾である三好長慶とその一派からも独立しよう、義輝はそんなふうに企画していたのです。
●剣豪将軍
政務とは直接関わりありませんが、足利義輝は非常に剣術に長けていたのではと言われています。なぜなら、義輝はかの剣聖・塚原卜伝の弟子であるという記録があるからです。さらに、当時の剣豪であった上泉信綱に剣術を披露させたこともあったらしく、その際に指導を受けたのではという説もあります。いずれも具体的にどうということはできないものですが、そもそも将軍位にあった人物についてこの種の記録があること自体が珍しく、少なくとも義輝が何がしか剣術に思い入れがあったということは確かでしょう。
暗殺
こうして旺盛な政治活動を行った義輝。当時の記録にも「天下を治むべき器用あり」などと書かれるほどの英明さでしたが、そんな義輝にも最期の時が訪れます。それは三好長慶が病死したあとのこと。長慶の築いた政権は、重臣の松永久秀らによって支えられることになります・・・といえば聞こえがいいのですが、実際は久秀らが長慶以後の権力を牛耳ろうとしたということです。久秀らは義輝を邪魔に思い、新しい将軍の擁立を計画します。そしてあろうことか久秀らは将軍である義輝の暗殺を企て、実行に移すのです。
こうして義輝は久秀らに攻められ、自害して果てました。満29歳。一説には攻められた際、自らの側に幾本もの刀を突き立てておき、それを引き抜き、取り替えつつ多数の敵と斬り合ったといいます。
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