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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


12月号 2013年12月31日更新

【今月の歴史人物】
「剣豪将軍」の幕府復興計画
足利義輝が将軍となる
天文15(1546).12.20


今月号のイラスト 徳川義輝 暗殺はよしてる
(C) イラストレーション:結木さくら

12月の主な誕生人物
01日 矢野文雄/小説家、政治家
02日 スーラ/画家
03日 永井荷風/小説家
04日 カンディンスキー/画家
04日 カーライル/歴史家
05日 ロセッティ/詩人
05日 ハイゼンベルク/物理学者
06日 大河内正敏/科学者/実業家
07日 西郷隆盛/政治家
07日 ホイジンガ/歴史家
07日 与謝野晶子/歌人
08日 津田梅子/教育者
09日 山崎闇斎/儒学者、神道家
10日 ディキンソン/詩人
11日 北村季吟/江戸時代の古典学者、俳人
11日 コッホ/細菌学者
11日 ベルリオーズ/作曲家
12日 福沢諭吉/教育者、思想家
12日 ムンク/画家
13日 ハイネ/詩人、評論家
13日 田山花袋/小説家
14日 ブラーエ/天文学者
15日 エッフェル/建築家
15日 ネロ/ローマ皇帝
15日 ベクレル/物理学者
15日 ザメンホフ/言語学者
16日 オーステン/小説家
17日 ベートーベン/作曲家
18日 志賀潔/細菌学者
19日 蘇軾/詩人、芸術家、政治家
20日 北里柴三朗/細菌学者
21日 ディズレーリ/政治家
21日 スターリン/政治家
22日 東郷平八郎/軍人
22日 プッチーニ/作曲家
23日 徳田秋声/小説家
24日 鈴木貫太郎/政治家、軍人
24日 ジュール/物理学者
25日 ニュートン/物理学者、数学者
25日 ユリトロ/画家
26日 徳川家康/江戸幕府初代将軍
26日 菊池寛/小説家
26日 ミラー/小説家
26日 岡倉天心/美術研究家
27日 ケプラー/天文学者
27日 頼山陽/儒者
27日 パスツール/細菌学者
28日 ウィルソン/政治家
29日 グラッドストン/政治家
29日 ポンパドール/ルイ15世愛妾
30日 キップリング/小説家、詩人
30日 東条英機/軍人、政治家
30日 小杉放庵/画家
31日 マチス/画家
31日 マーシャル/軍人、政治家

鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府とあった中で、暗殺された将軍というのは何人かいます。その中でも華々しい、といっては語弊があるでしょうが、ともかく最も武士らしい最期を迎えたのは、今月ご紹介する室町幕府13代将軍、足利義輝かもしれません。この義輝、「剣豪将軍」という異名でも知られる、なかなか変わった将軍でした。

子供時代
足利義輝が誕生したのは天文5(1536)年3月10日のことです。時代としては戦国時代の中期から後期にさしかかるあたり。ちなみに、かの織田信長が生まれたのが天文3年ですから、まさに同世代の人物ということになります。
父は室町幕府12代将軍・足利義晴です。このころの室町幕府は弱体化が著しく、中央では将軍や重臣が入り乱れて権力争いに明け暮れていました。
この頃の幕府における実力者は、管領・細川晴元。12代義晴はこの晴元と対立、たびたび京都を追われます。と、書いてしまうと簡単ですが、将軍がその本拠地をたびたび追われるというのですから、何ともすごい時代でした。
さて、天文15(1546)年12月20日、義晴の息子、すなわち義輝が将軍となります。その場所も京都ではなく、逃げた先の近江。義輝はわずかに10歳という年齢でした。ちなみに、この時のかれは「義輝」という名ではなく「義藤」という名だったのですが、ややこしくなるのでここでは義輝で通すことにします。
さて、将軍にはなりましたが、10歳の子供である義輝には政務を執ることなどできません。そこは父の義晴が代わりに動くことになります。

権力争いの混沌
ではこのころの義晴はというと、細川氏一門の一人である細川氏綱という人物と結び、晴元の追い落としに動いていました。そして、ここからしばらく、義輝の周辺では、もはや混沌としか言いようのない大変な権力争いが続きます。詳しく述べることは避けますが、最終的に三好長慶という晴元の重臣が最高権力を握り、「三好政権」とも言われるほどの勢力を誇ることになります。そして、晴元は没落し、氏綱が傀儡としての管領に就任、父・義晴は権力争いの中で病死しました。そして義輝は長慶と和睦することで、その地位を確かなものとします。それが永禄元(1558)年のこと。義輝は22歳の青年になっていました。ここから義輝は将軍として、その権威回復に向けて動き出します。

義輝の「政治」
さて、義輝の行ったこととは具体的になんだったのでしょうか。それは以下のようなものでした。
●大名の争いの仲裁
義輝が積極的に行ったことの一つが、大名間の争いの仲裁でした。有名なところではまず武田晴信(信玄)と長尾景虎(上杉謙信)の講和を実現させました。さらに、毛利元就と大友義鎮(宗麟)の講和をとりもったのも義輝でした。
●大名たちへの懐柔策
世は戦国。強い力を持つ戦国大名たちを懐柔することも、義輝は忘れませんでした。新興の織田信長や上杉謙信などに謁見を許したり、大友氏や毛利氏に守護職を与えたりしています。
また、自らの名の一字を与えるということも行いました。例えば、通人にして戦国大名であった細川幽斎の名は「藤孝」といい、これは義輝のはじめの名である「義藤」の藤の字を貰い受けています。また、毛利元就の孫で豊臣五大老の一人、関ヶ原の戦いにおいては西軍総大将を務めた毛利輝元はまさに義輝の「輝」の一字を貰い受けた人物です。
これら大名との交流が政治といわれても、現代の目からはぴんとこないかも知れません。しかし、当時にあってはこれこそ政治。これらの積み重ねによって将軍の権威を復活させ、ひいては後ろ盾である三好長慶とその一派からも独立しよう、義輝はそんなふうに企画していたのです。
●剣豪将軍
政務とは直接関わりありませんが、足利義輝は非常に剣術に長けていたのではと言われています。なぜなら、義輝はかの剣聖・塚原卜伝の弟子であるという記録があるからです。さらに、当時の剣豪であった上泉信綱に剣術を披露させたこともあったらしく、その際に指導を受けたのではという説もあります。いずれも具体的にどうということはできないものですが、そもそも将軍位にあった人物についてこの種の記録があること自体が珍しく、少なくとも義輝が何がしか剣術に思い入れがあったということは確かでしょう。

暗殺
こうして旺盛な政治活動を行った義輝。当時の記録にも「天下を治むべき器用あり」などと書かれるほどの英明さでしたが、そんな義輝にも最期の時が訪れます。それは三好長慶が病死したあとのこと。長慶の築いた政権は、重臣の松永久秀らによって支えられることになります・・・といえば聞こえがいいのですが、実際は久秀らが長慶以後の権力を牛耳ろうとしたということです。久秀らは義輝を邪魔に思い、新しい将軍の擁立を計画します。そしてあろうことか久秀らは将軍である義輝の暗殺を企て、実行に移すのです。
こうして義輝は久秀らに攻められ、自害して果てました。満29歳。一説には攻められた際、自らの側に幾本もの刀を突き立てておき、それを引き抜き、取り替えつつ多数の敵と斬り合ったといいます。

 



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