【今月の歴史人物】
人気人物の幕末・維新
勝海舟
文政6(1823).1.30〜1899.1.19 今月号のイラスト
◆ 古き日本を海舟。
(C)
イラストレーション:結木さくら
1月の主な誕生人物
01日 豊臣秀吉/安土桃山時代の武将
01日 フレイザー/人類学者。古典学者
01日 クーベルタン/教育者
02日 道元/鎌倉時代の僧
03日 加藤高明/政治家
03日 キケロ/哲学者、政治家
03日 小林一三/実業家
04日 グリム(ヤーコブ)/童話集成家、言語学者
05日 夏目漱石/小説家
06日 ジャンヌダルク/救国の少女
06日 シュリーマン/考古学者
07日 グレゴリウス十三世/ローマ法王
08日 徳川綱吉/江戸幕府5代将軍
08日 堀口大学/詩人、翻訳家
09日 ニクソン/政治家
09日 チャペック/小説家、劇作家
09日 ボーボワール/小説家、評論家
10日 鈴木正三/安土桃山〜江戸時代の武将、僧
10日 高山樗牛/評論家
10日 嶋村抱月/評論家
11日 伊能忠敬/江戸時代の地図作成家
12日 ペスタロッチ/教育者
13日 狩野芳崖/画家
13日 ベルツ/医師
14日 シュバイツァー/医者、神学者
14日 三島由紀夫/小説家
15日 モリエール/劇作家
15日 西條八十/詩人
16日 葛西善蔵/小説家
16日 鳥羽天皇/第74代天皇
16日 伊藤整/小説家、評論家
17日 ロイドジョージ/政治家
18日 モンテスキュー/法学者
19日 森鴎外/小説家
19日 コント/哲学者
19日 ポー/小説家
19日 セザンヌ/画家
20日 岡田啓介/政治家、軍人
21日 上杉謙信/戦国時代の武将
22日 大塩平八郎/江戸時代の儒者、武士
22日 ベーコン/哲学者
23日 マネ/画家
23日 スタンダール/小説家
23日 湯川秀樹/科学者
24日 フリードリヒ大王/プロシア王
24日 ボーマルシェ/劇作家
25日 ボイル/化学者、物理学者
25日 ラグランジュ/数学者
25日 御木本幸吉/実業家
25日 徳富蘇峰/ジャーナリスト
26日 マッカーサー/軍人
27日 モーツァルト/作曲家
27日 前田青邨/画家
28日 スタンリー/探検家
29日 ベルヌーイ(ダニエル)/数学者
29日 チェーホフ/小説家、劇作家
29日 ロラン/小説家、劇作家
30日 勝海舟/江戸時代の幕臣
30日 ルーズベルト(フランクリン)/政治家
31日 シューベルト/作曲家
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今月ご紹介するのは、幕末の有名人物・勝海舟。ドラマや映画にも頻繁に登場し、豪快・鷹揚といったイメージの強い人物ですが、その生涯を見ると、それもなるほどと思わせられます。
苦学、そして出世へのチャンス
勝海舟が誕生したのは文政6(1823)年の1月30日。いわゆる化政(文化・文政)時代の真っ只中ということになります。海舟は号で、通称は麟太郎、維新後は安芳と改名しましたが、ここでは海舟で通すことにします。
海舟が生まれたのは貧しい下級旗本の家。父は小吉、母はのぶといいます。ちなみに、父の小吉もなかなか面白い人物で、一言で言えば変わり者。勉強は嫌い、喧嘩や道場破りが大好きという破天荒な男でした。海舟の個性には、この父の血がいくらか影響していたのかもしれません。
若き日の海舟はまず剣術を熱心に学びました。剣が強いというイメージはそれほどありませんが、実は「直心影流」という有名な剣術流派の免許皆伝までいっているほどです。さらに蘭学や兵学も学びました。のちには蘭学塾も開いています。この学問時代、海舟はかなり貧乏をしたようで、人から借りた蘭和辞典を2部筆写し、1部を自分用に、1部は売ってお金にした、などという苦学のエピソードも伝わっています。
そんな海舟の運命が大きく動くのは、あのペリー来航がきっかけでした。この大事件に直面し、幕府は海防に関する意見を広く募集します。海舟はこれに応募し、幕臣の大久保忠寛(一翁)と知り合いました。これをきっかけとして、下級旗本に過ぎなかった海舟が幕府内で出世してゆくこととなるのです。
海軍修行
海舟の歩いた道は、後の言葉で言えば海軍畑ということになります。まずは長崎にあった海軍伝習所へと入所し、海防や海軍について学びます。学習期間は5年間に及び、海舟は幕府内でも有数の海軍知識を持つようになりました。
続いて海舟は、日米修好通商条約の批准書を交わすための遣米使節を護衛するため、あの有名な「咸臨丸」に乗って太平洋を横断するという任務を与えられます。この航海については、往路は日本人乗組員は未熟すぎて何もできず、航海のほとんどが同乗のアメリカ人乗組員によって行われたとも言われます。しかし、復路の方は日本人乗組員だけで立派に太平洋を渡って帰国しました。アメリカという土地をじかに見られたことも含め、この旅は海舟を大きく成長させたことでしょう。
帰国した海舟は順調に昇進し、やがて軍艦奉行(幕府海軍の責任者)にまでなります。この頃、海舟が設立に尽力したのが「神戸海軍操練所」です。海軍知識を教える施設であり、後の言葉で言うならさしずめ士官学校といったところでしょうか。かの坂本龍馬も所属するなど、幕臣だけではないさまざまな人材を受け入れていました。しかしその柔軟さが仇となったのか、およそ1年で施設は閉鎖の憂き目にあっています。
西郷との会談
幕末における海舟の活躍、そのクライマックスはやはり江戸無血開城を決めた西郷隆盛との会談でしょう。このころ海舟は幕府との関係がしっくりといかず、役目を離れたような状態にありました。しかし、官軍との戦い(戊辰戦争)で押し込まれ、どうしようもなくなった幕府は事態を収拾するために海舟を呼び戻します。こうして行われたのが、勝海舟と西郷隆盛の会談でした。
誰もが知るとおり、この会談はうまくいきました。将軍・徳川慶喜は水戸への謹慎となって助命されること、江戸城は無血で開城されることなどが決定されたのです。会談が行われたのは官軍による江戸総攻撃予定日の前日と前々日でしたから、まさに薄氷を踏むような交渉でした。
維新後の海舟
維新後の海舟は、あまり表立って政治に絡んではいません。旧幕府の実力者ですから、新政府での働きも期待され、実際に重要ポストにもついていますが、やがてそれらも辞してしまいます。ただ、「昔のことは語らず、ひっそりと世を捨てたように暮らした」などというよくあるパターンにはならず、政治家たちの相談に乗ることもしばしば、昔のこともよく語り残しました。さらに、旧幕臣の援助といった活動にも力を入れています。そうして1899年1月19日、76歳で海舟はこの世を去っています。
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