1804年3月21日、フランス民法典、いわゆる「ナポレオン法典」が公布されました。今回はこれにちなみ、歴史に登場する法典やルールをいくつかご紹介しましょう。
●ナポレオン法典
まずはナポレオン法典のご紹介から。ナポレオン・ボナパルトについてはご説明の必要もないでしょうか。フランスの一軍人という立場から瞬く間に出世し、ついにフランスの皇帝にまで昇りつめた人物です。いわゆるナポレオン戦争を主導し、一時はヨーロッパの大半を掌握しましたが、最後には没落して、流刑の地・セントヘレナ島で寂しく亡くなりました。
ナポレオン法典とは、そのナポレオンが成立に深く関わった法典です。何かナポレオンの作った私的な規則集のようにも思えますが、そうではありません。法律の専門家たちが起草し、ナポレオンもそれに深く参加する形で成立した民法典です。フランス国内で通用していた古来からの法を統一し、さらにフランス革命で得た成果も加えた近代的民法典のさきがけと評価されています。「法の前の平等」や「信教の自由」などの考え方が含まれており、以後のさまざまな民法の模範となりました。むろん、日本の旧民法にも影響を与えています。
●権利の章典
世界史で必ず登場する法典の一つが「権利の章典」。イギリスで1688年に起こった「名誉革命」の成果として成文化されたもので、イギリス国民や議会の権利が定められています。
日本には憲法=日本国憲法があります。アメリカも合衆国憲法を持っています。憲法を持つということは、近代国家の要件といってもいいほどなのですが、実はイギリスには憲法がないのです。正確にいうと、一つのまとまりとしての憲法典=イギリス国憲法がないのです。しかし本当に憲法がないわけではなく、実はイギリスは、その歴史上で積み重なってきたさまざまな法の集合体を憲法として運用しています。これを構成する法典の一つに、権利の章典も含まれているわけです。
●ハムラビ法典
ハムラビとは紀元前18世紀ごろのバビロン王です。バビロンというのはメソポタミア地方にあった都市国家の名です。ハムラビはその周辺の地域を統一し、バビロニアと呼ばれる帝国をつくったのです。このハムラビ王が作ったとされる法律が「ハムラビ法典」と呼ばれるものです。
ハムラビ法典は我々が法典といわれてイメージするような書物の形ではありません。高さ2メートル強の閃緑岩の石碑に刻まれた法典です。文字はもちろんメソポタミア文明の「楔形文字」です。
この法典の代名詞ともいえる言葉があります。それは「目には目を、歯には歯を」。これはしばしば「目を潰されたら相手の目を潰してもよい」といったような復讐奨励法のごとく解釈されますが、実際は「目を潰されたら相手の目を潰すまでが復讐の限度である」といったような意味合いだとされます。際限のない争いを食い止めるためのルールだったのです。
●御成敗式目
日本からも一つ、法典をご紹介しましょう。当然のことながら、日本史にもさまざまな法典が登場します。初の本格的律令・大宝律令、戦国大名たちが定めた分国法、江戸幕府が出したさまざまな法令等々・・・その中でも一つのターニングポイントになったと言えるのが、鎌倉幕府3代執権・北条泰時の時代に成立した「御成敗式目」です。
鎌倉幕府成立後、承久の乱を経て、幕府の権力が巨大化したため、土地等を巡るさまざまな揉め事が多発するようになります。それに対する基準となる法律がこの「御成敗式目」でした。
御成敗式目の大きな特徴は「初の武家法」であるということです。ですから、それを貫く道理は武家目線です。しかもその後、日本は650年も武家社会が続くわけですから、御成敗式目の影響力は大変大きなものがありました。御成敗式目は次の室町幕府、そして戦国時代の諸大名にとっても基本的な法として受け継がれ、江戸幕府の基本法「武家諸法度」にももちろん影響を与えています。
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