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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


4月号 2014年4月30日更新

【今月の歴史人物】
「秀吉時代」に着々
賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家が敗れる
天正11(1583).4.21


今月号のイラスト 豊臣秀吉統一のための御破算、賤ヶ岳
(C) イラストレーション:結木さくら

4月の主な誕生人物
01日 親鸞/鎌倉時代の僧
01日 ビスマルク/政治家
01日 浜口雄幸/政治家
02日 アンデルセン/童話作家
02日 ゾラ/小説家
03日 アーヴィング/小説家
03日 長塚節/歌人、小説家
04日 山本五十六/軍人
05日 ホッブス/哲学者、政治学者
05日 内田魯庵/評論家、小説家
05日 カラヤン/指揮者
06日 ラファエロ/画家
06日 ミル/歴史家
06日 モロー/画家
07日 法然/平安、鎌倉時代の僧
07日 ザビエル/宣教師
07日 ワーズワース/詩人
07日 鈴木梅太郎/化学者
07日 小川未明/童話作家
08日 フッサール/哲学者
08日 岸田吟香/ジャーナリスト
09日 ボードレール/詩人
10日 ペリー/軍人
10日 グロチウス/法学者、政治家
10日 香川景樹/歌人
10日 ピュリッツアー/ジャーナリスト
10日 レーニン/革命家、政治家
11日 広瀬淡窓/江戸時代の儒者
11日 パーキンソン/医師
11日 小林秀雄/評論家
12日 マイヤーホーフ/生理学者
13日 トレビシック/発明家
14日 ホイヘンス/物理学者、天文学者
14日 トインビー/歴史家
15日 レオナルド・ダ・ビンチ/画家、彫刻家、科学者
15日 内藤鳴雪/俳人
16日 チャップリン/映画俳優、監督
16日 虎関師錬/僧
16日 ライト(ウィルバー)/発明家
16日 フランス/小説家
17日 板垣退助/政治家
17日 モルガン/実業家
18日 ズッペ/作曲家
19日 フェヒナー/心理学者
20日 犬養毅/政治家
20日 ナポレオン3世/仏皇帝
20日 ヒトラー/独裁者
20日 ミロ/画家
21日 ブロンテ(シャーロット)/小説家
21日 ウェーバー/社会学者
22日 カント/哲学者
22日 オッペンハイマー/物理学者
23日 プランク/物理学者
23日 ターナー/画家
24日 カートライト/発明家
25日 川路聖謨/江戸時代の武士
26日 シェークスピア/劇作家
26日 ドラクロワ/画家
27日 モールス/発明家
27日 スペンサー/哲学者
28日 伊藤東涯/江戸時代の儒者
28日 山田検校/筝曲家
29日 ポアンカレ/数学者
29日 田口卯吉/経済学者
30日 ガウス/数学者

戦国期、有名な合戦は数々ありますが、今月ご紹介する「賤ヶ岳の戦い」もその一つ。織田信長亡き後、羽柴(豊臣)秀吉が権力を握る直接のきっかけになった合戦でした。

重臣ふたり・激突の機運
天正10(1582)年6月2日、日本史上の大事件が勃発しました。言わずと知れた「本能寺の変」です。当時、ほぼ天下を手中にしていた織田信長が、重臣の明智光秀の急襲を受けて死んだのです。嫡男の織田信忠も同日に自害したため、これより先、天下の行く末が大きく変化することになります。
信長には数々の重臣がいましたが、その中でも力を持っていたのが古参の柴田勝家と、百姓身分から瞬く間に成り上がった羽柴秀吉でした。
秀吉と勝家。両人は信長亡き後の重臣会議(清洲会議)において衝突します。織田家の後継者を誰にするかで揉めたのです。勝家が推したのは信長の三男・織田信孝。一方、秀吉が推したのは信忠の嫡男である三法師でした。
結局この問題は、三法師を後継者にするということで決定されました。言い換えれば、秀吉の勝利です。本能寺の変の直後、反逆者の光秀を討ったのは秀吉で、勝家は戦いに参加できませんでした。そのことが秀吉の発言力を高めたとされます。
むろん、勝家はこの結果に納得がいきません。主君の敵を討った手柄をいいことに、古参の自分を追い抜いて家臣団のトップに登りつめ、ゆくゆくは天下を掠め取ろうとまでしている。そのように考えたでしょうか。こうして両者の溝はいよいよ深まってゆくのです。
二人が戦うのはもはや不可避でした。以後、二人は各地の武将たちを自分の勢力に取り込もうと活動を開始します。こうして起こったのが「賤ヶ岳の戦い」というわけです。

賤ヶ岳の戦い
それまでにも前哨戦的な軍事作戦はありましたが、本格的に両者がぶつかりはじめるのは天正11(1583)年の3月からです。信長がこの世を去ってからわずかに9か月後のことでした。
合戦において、秀吉側には丹羽長秀(織田の重臣。「四天王」の一人と言われる)や織田信雄(信長の次男)らがつきました。勝家側には滝川一益(四天王の一人)、前田利家らがつきました。戦いの地は近江国(現在の滋賀県)の賤ヶ岳一帯。当初は勝家が押していたものの、やがて秀吉が押し返し、勝利を納めました。これが天正11年の4月21日のことでした。その翌日、勝家は自らの居城へと撤退しました。

この戦いにおける有名なエピソードを二つほどご紹介しましょう。
●前田利家の裏切り
前田利家といえば、後の豊臣政権の重鎮。権力をきわめた秀吉に対し、唯一ものが言える人物だったともされ、政権をよく支えました。ところが、先述したとおり、この時は勝家に協力していました。と、言うより、当時の利家は勝家の部下だったのです。しかしながら、利家は秀吉の友でもありました。軽輩の時分から苦楽を共にし、本人だけではなく、妻同士も仲がよかったと言われます。そんな自分の立場に苦悩したのでしょうか、利家は合戦のさなかに戦いを放棄しました。勝家を裏切ったということです。これにより戦局は秀吉有利に大きく動きました。
●賤ヶ岳の七本槍
この戦いにおいて、秀吉側で特に活躍した部将を「賤ヶ岳の七本槍」といいます。猛将の誉れ高い福島正則や加藤清正などが含まれています。ほかのメンバーは、脇坂安治、片桐且元、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則。彼らはこの戦功によって多くの褒美を賜り、さらにのちの豊臣政権でも厚遇されてゆきます。

勝家死す、秀吉時代へ
さて、撤退した勝家はどうなったでしょうか。ご存知の方も多いでしょうが、居城を包囲された勝家は、妻と共に自害しました。4月の24日のことです。妻というのは織田信長の妹であるお市の方です。一度浅井家に嫁ぎましたが、信長によって浅井が滅ぼされた後、織田へと戻り、その後勝家に嫁していたのです。2度に渡って嫁いだ家が滅ぼされ、最後には自害。戦国時代ということを考えても、過酷な運命でした。
一方、秀吉の方はこの合戦の勝利によって、自らの足場を完全に固めました。以後、信長のやり残した天下統一という目標に向かって驀進してゆくのです。

 



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