戦国期、有名な合戦は数々ありますが、今月ご紹介する「賤ヶ岳の戦い」もその一つ。織田信長亡き後、羽柴(豊臣)秀吉が権力を握る直接のきっかけになった合戦でした。
重臣ふたり・激突の機運
天正10(1582)年6月2日、日本史上の大事件が勃発しました。言わずと知れた「本能寺の変」です。当時、ほぼ天下を手中にしていた織田信長が、重臣の明智光秀の急襲を受けて死んだのです。嫡男の織田信忠も同日に自害したため、これより先、天下の行く末が大きく変化することになります。
信長には数々の重臣がいましたが、その中でも力を持っていたのが古参の柴田勝家と、百姓身分から瞬く間に成り上がった羽柴秀吉でした。
秀吉と勝家。両人は信長亡き後の重臣会議(清洲会議)において衝突します。織田家の後継者を誰にするかで揉めたのです。勝家が推したのは信長の三男・織田信孝。一方、秀吉が推したのは信忠の嫡男である三法師でした。
結局この問題は、三法師を後継者にするということで決定されました。言い換えれば、秀吉の勝利です。本能寺の変の直後、反逆者の光秀を討ったのは秀吉で、勝家は戦いに参加できませんでした。そのことが秀吉の発言力を高めたとされます。
むろん、勝家はこの結果に納得がいきません。主君の敵を討った手柄をいいことに、古参の自分を追い抜いて家臣団のトップに登りつめ、ゆくゆくは天下を掠め取ろうとまでしている。そのように考えたでしょうか。こうして両者の溝はいよいよ深まってゆくのです。
二人が戦うのはもはや不可避でした。以後、二人は各地の武将たちを自分の勢力に取り込もうと活動を開始します。こうして起こったのが「賤ヶ岳の戦い」というわけです。
賤ヶ岳の戦い
それまでにも前哨戦的な軍事作戦はありましたが、本格的に両者がぶつかりはじめるのは天正11(1583)年の3月からです。信長がこの世を去ってからわずかに9か月後のことでした。
合戦において、秀吉側には丹羽長秀(織田の重臣。「四天王」の一人と言われる)や織田信雄(信長の次男)らがつきました。勝家側には滝川一益(四天王の一人)、前田利家らがつきました。戦いの地は近江国(現在の滋賀県)の賤ヶ岳一帯。当初は勝家が押していたものの、やがて秀吉が押し返し、勝利を納めました。これが天正11年の4月21日のことでした。その翌日、勝家は自らの居城へと撤退しました。
この戦いにおける有名なエピソードを二つほどご紹介しましょう。
●前田利家の裏切り
前田利家といえば、後の豊臣政権の重鎮。権力をきわめた秀吉に対し、唯一ものが言える人物だったともされ、政権をよく支えました。ところが、先述したとおり、この時は勝家に協力していました。と、言うより、当時の利家は勝家の部下だったのです。しかしながら、利家は秀吉の友でもありました。軽輩の時分から苦楽を共にし、本人だけではなく、妻同士も仲がよかったと言われます。そんな自分の立場に苦悩したのでしょうか、利家は合戦のさなかに戦いを放棄しました。勝家を裏切ったということです。これにより戦局は秀吉有利に大きく動きました。
●賤ヶ岳の七本槍
この戦いにおいて、秀吉側で特に活躍した部将を「賤ヶ岳の七本槍」といいます。猛将の誉れ高い福島正則や加藤清正などが含まれています。ほかのメンバーは、脇坂安治、片桐且元、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則。彼らはこの戦功によって多くの褒美を賜り、さらにのちの豊臣政権でも厚遇されてゆきます。
勝家死す、秀吉時代へ
さて、撤退した勝家はどうなったでしょうか。ご存知の方も多いでしょうが、居城を包囲された勝家は、妻と共に自害しました。4月の24日のことです。妻というのは織田信長の妹であるお市の方です。一度浅井家に嫁ぎましたが、信長によって浅井が滅ぼされた後、織田へと戻り、その後勝家に嫁していたのです。2度に渡って嫁いだ家が滅ぼされ、最後には自害。戦国時代ということを考えても、過酷な運命でした。
一方、秀吉の方はこの合戦の勝利によって、自らの足場を完全に固めました。以後、信長のやり残した天下統一という目標に向かって驀進してゆくのです。
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