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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


5月号 2014年5月31日更新

【今月の歴史人物】
ヨーロッパ史に輝く「女帝」
マリア・テレジア
1717.5.13〜1780.11.29


今月号のイラスト マリア・テレジア恋愛結婚を成し遂げ照れジア
(C) イラストレーション:結木さくら

5月の主な誕生人物
01日 円山応挙/江戸時代の画家
02日 エカテリーナ二世/ロシア女帝
03日 マキァベリ/政治家、歴史家
04日 西郷従道/政治家
05日 小林一茶/江戸時代の俳人
05日 キルケゴール/哲学者
05日 高野長英/医師、蘭学者
05日 マルクス/経済学者
06日 フロイト/精神医学者
06日 ロベスピエール/革命家
07日 本居宣長/江戸時代の国学者
07日 ブラームス/作曲家
07日 美濃部達吉/法学者
07日 ブラウニング/詩人
08日 トルーマン/政治家
09日 バリー/劇作家
10日 モンジュ/数学者
10日 ブライス/法学者、政治家
11日 ダリ/画家
11日 ファインマン/物理学者
12日 ナイチンゲール/看護婦
12日 武者小路実篤/小説家
13日 マリア・テレジア/オーストラリア女帝
13日 カルノー/軍人、政治家
14日 北条時頼/鎌倉幕府五代執権
14日 ファーレンハイト/技術者
14日 オーウェン/思想家
15日 北条時宗/鎌倉幕府八代執権
15日 メッテルニヒ/政治家
15日 キュリー(ピエール)/物理学者
15日 市川房枝/政治家
16日 間部詮房/江戸時代の側用人
16日 ヒューズ/発明家
17日 ジェンナー/医学者
17日 サティ/作曲家
17日 安井曾太郎/画家
18日 ラッセル/数学者、哲学者
19日 西田幾太郎/哲学者
19日 フィヒテ/哲学者
20日 バルザック/小説家
20日 ミル(ジョン・スチュアート)/経済学者、思想家
21日 デューラー/画家
21日 ルソー/画家
22日 ドイル/小説家
22日 ワグナー/作曲家
22日 坪井逍遥/小説家
23日 リンネ/植物学者
23日 リリエンタール/技術者、発明家
24日 ビクトリア/イギリス女王
24日 ハチャトゥリアン/作曲家
25日 エマーソン/哲学者、詩人
25日 チトー/政治家
26日 中村正直/教育者
26日 ガイスラー/技術者
27日 イブン・ハルドゥン/歴史家
28日 崇徳天皇/第75代天皇
28日 ピット(小ピット)/政治家
28日 ギヨタン/医師
29日 林鵞峯/江戸時代の儒者
29日 ケネディ/政治家
30日 林房雄/小説家
31日 ホイットマン/詩人

今月ご紹介するのは18世紀のオーストリア統治者、マリア・テレジアです。日本では娘のマリー・アントワネットのほうがよほど有名ですが、ヨーロッパではむしろ逆で、偉大な女性君主として広く知られている存在です。

ハプスブルクの子
マリア・テレジアが誕生したのは1717年の5月13日。日本でいえば江戸時代、徳川吉宗が8代将軍となった直後であり、あの大岡忠相が町奉行に抜擢されたのがこの年です。
マリア・テレジアはヨーロッパの名家である「ハプスブルク家」の生まれです。父は神聖ローマ皇帝カール6世、母はその妻・皇后エリザベート・クリスティーネです。
当時のヨーロッパの政治事情というのは非常に複雑で、そもそも現代の「国」の感覚では飲み込みづらいものです。王が治めるまとまった「国」がある一方で、力を持った貴族が治める「領地」のようなものが分立しているような場所もありました。ただ、領地といえども、言葉からイメージされるようなちょっとした土地ではなく、きわめて広大な、それこそ「国」レベルの領地であったりしました。そういう大貴族がハプスブルク家であり、このハプスブルク家が治めていた領地群が、当時「オーストリア」と言われる広大な「国」であったのです。マリア・テレジアはそこに誕生したのでした。

めずらしい恋愛結婚
少女時代のマリア・テレジアは両親に愛されて、何不自由なく幸せに育ちました。カトリック教育、フランス語やイタリア語といった幅広い語学教育、楽器や舞踏といった、大貴族の子女にふさわしい豊かな教育を受け、家や国を継承するための専門教育を詰め込まれることもありませんでした。ハプスブルク家というのは男子相続の家であり、伝統的に継承していた神聖ローマ帝国の皇位も男子が相続するものだったからです。
さて、若き日のマリア・テレジアについてよく語られるエピソードは、その結婚です。当時のヨーロッパにおける貴族や王家の子は、自由に結婚することはほとんどありませんでした。しかし彼女の場合は、恋愛結婚が許されたのです。相手はオーストリアに留学中だったロートリンゲン(ロレーヌ)の公子、フランツ・シュテファン。ハプスブルクとは釣り合わない、明らかな小貴族でした。しかしマリア・テレジアの父は二人の結婚を許可し、ふたりは1736年に結婚します。

相続と戦争
やがてマリア・テレジアの父・カール6世が没しました。実はカール6世には男子がなく、このためにマリア・テレジアがその地位や領地を受け継ぐことになります。先述の通り、ハプスブルク家は男子による相続の家でした。そこにマリア・テレジアの相続話ですから、周囲の勢力は黙っていません。これがチャンスとばかりにオーストリアへ圧力をかけ、1740年にはついに戦争となります。これが歴史上で「オーストリア継承戦争」と言われる戦争です。君主としての教育も受けていない、わずか20代前半の娘が突然直面した危機でした。
しかしマリア・テレジアはこの戦争をよく戦いました。当時オーストリアの統治下にあったハンガリーの議会に乗り込み、協力を求める演説をぶったことはよく知られるエピソードです。
結果、この戦争で、オーストリアはシュレジエンという重要な領地を奪われる結果となりました。しかしその一方で、マリア・テレジアによるハプスブルク家継承と、夫フランツ・シュテファンの神聖ローマ皇帝即位は認められたのです。ハプスブルク家とオーストリアが崩壊してもおかしくなかったこの大ピンチをこのように収めた訳ですから、マリア・テレジアにとっては勝ちに等しい結果だったかもしれません。これにより、マリア・テレジアは、当時のヨーロッパを治めていた権力者たちの脳裏に、実に侮れない統治者として刻み込まれたのです。

家庭も盛り立てる
その後、マリア・テレジアはハプスブルク家の長として、また実質的な「女帝」として、権力をふるいました。一度失ったシュレジエンを奪回するために再びの戦争を戦い(結局シュレジエンは取り戻せませんでしたが)、国内向けには軍事改革や教育改革、農政改革に取り組みました。
その一方で、自らの家庭もよく盛り立てました。夫フランツ・シュテファンとの間に儲けた子供はなんと16人!その中には冒頭で触れたマリー・アントワネットがおり、また、マリア・テレジアの後継者となるヨーゼフ2世が含まれています。
夫婦仲もまずまず。夫の方は小貴族から婿入りした辛さを味わうこともあったようですが、それでも決定的な冷淡に陥ることはなかったようです。夫の死後、マリア・テレジアは生涯を喪服で過ごしたといいますから、少なくともマリア・テレジアの方は夫を深く愛していたのでしょう。
マリア・テレジアが亡くなったのは1780年11月29日のこと。久々に家族が集まって狩りに出かけた際に風邪を引き、それがもとであっけなく亡くなりました。63歳でした。およそ40年もの間、オーストリアに君臨した彼女は、夫フランツ・シュテファンと同じ墓に眠っています。

 



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