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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


6月号 2014年6月30日更新

【今月の歴史人物】
信長死す!そのとき彼らは…
本能寺の変
天正10(1582).6.2


今月号のイラスト 織田信長苺パンツでむっつり死んだ信長と覚えた者そこへ直れ。
(C) イラストレーション:結木さくら

6月の主な誕生人物
01日 カルノー/物理学者
02日 エルガー/作曲家
    サド/小説家 
03日 佐佐木信綱/歌人
    デュフィ/画家
04日 ケネー/経済学者、医者
05日 ケインズ/経済学者
    スミス/経済学者
06日 ブラウン/物理学者
    ベラスケス/画家
    マン/小説家
07日 梅田雲浜/江戸時代の儒者
08日 シューマン/作曲家
    カッシーニ/天文学者
    広津柳浪/小説家
    土岐善麿/歌人
09日 滝沢馬琴/江戸時代の読本作者
    スティーブンソン/技術者
    山田耕筰/作曲家
10日 徳川光國/江戸時代の水戸藩主
    多能村竹田/画家
    山岡鉄舟/幕臣、政治家
11日 シュトラウス/作曲家
    川端康成/小説家
12日 花井卓蔵/弁護士
    キングスリー/小説家
13日 ヤング(トマス)/物理学者、医学者、考古学者
14日 クーロン/物理学者
15日 空海/平安時代の僧
    グリーグ/作曲家
    佐藤信淵/農政学者
16日 荻原井泉水/俳人
17日 クルックス/物理学者、化学者
    ストラビンスキー/作曲家
18日 モース/動物学者
    ラディゲ/詩人
19日 パスカル/数学者、物理学者、哲学者
    太宰治/小説家
20日 ホプキンズ/生化学者
    白河天皇/第72代天皇
21日 サルトル/哲学者、小説家、劇作家
22日 フンボルト/言語学者、政治家
    田中義一/政治家、軍人
23日 水野忠邦/江戸時代の老中
    林述斎/儒者
    三木露風/詩人
24日 ビアス/小説家、ジャーナリスト
    ビアス/作家
25日 ガウディ/建築家
26日 木戸孝允/政治家、幕末の志士
    ケルビン/物理学者
    バック/小説家
27日 小泉八雲/文学者
    ケラー/福祉活動家
28日 ルソー/思想家
    ルーベンス/画家
29日 黒田清輝/画家
    サン=テグジュペリ/小説家
30日 サトー/外交官

本能寺の変。京都・本能寺に宿泊していた織田信長を、重臣の明智光秀が軍勢を率いて急襲した事件。信長は自ら武器を取って奮戦しますが、何しろ多勢に無勢。天下統一を目前にしながら、ついに信長は命を落とした…
以上が事件のあらましですが、これらのことはほとんど常識といっていいほどよく知られていると思われます。
しかし、本能寺の変が起こったとき、他の重要人物は本筋のできごとよりは知られていないのではないでしょうか。今回は少し目線を変え、本能寺の変という大事件が進行している最中の、他の人物たちの行動を見てみましょう。

●豊臣秀吉
まずは豊臣秀吉。当時は羽柴秀吉と名乗っていました。百姓身分から成り上がり、信長の家臣の中でも最重要クラスにまでなっていた秀吉。本能寺の変前後の彼の動向は、ほかの人物らよりはよく知られているでしょうか。
本能寺の変の直前、秀吉は中国地方の大名・毛利氏を攻めている真っ最中でした。そもそも織田信長が本能寺に宿泊していた理由は、この秀吉を援護するための出陣の準備だったのです。
さて、変の発生を知った秀吉は、即座に毛利勢と和睦し、軍勢を率いて京都へと出発します。とてつもない早さで京都へと辿り着いた秀吉軍は、そのまま明智光秀を討ち、信長死後の政局で優位に立ち回ることとなります。この行動の素早さ、そして変後に得た利益の大きさなどから、秀吉こそが変をウラから操っていた黒幕である、という説まで唱えられるほどです。

●柴田勝家
織田四天王と呼ばれる四人の重臣(柴田勝家、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀)。その中では筆頭格とも言えるのが柴田勝家です。このときの勝家は、北陸の上杉氏領地を攻略中。そのために勝家は京都へと駆けつけることができませんでした。結局勝家は手柄を奪った秀吉と対立、のちに秀吉によって滅ぼされます。ちなみに、のちに豊臣政権の重鎮となる前田利家も、この時は勝家と行動をともにしていました。

●織田信忠
織田信長の嫡男、織田信忠。信長に比べれば大きく知名度が落ちる存在ですが、実はこの頃はすでに、信長の重臣たちと肩を並べ、大軍勢を率いながら織田の勢力を支えるまでになっていました。つまり、れっきとした信長の後継者だったのです。
本能寺の変の際も、信忠は信長とともに、秀吉の援護に出陣する予定でした。宿泊先は本能寺ではなく、京都の妙覚寺。変の発生を知り、信長を救おうと出発するものの、時すでに遅く、また手勢も少なく、結局二条御所に篭城しました。そしてそのまま明智勢に攻められ、信長と同じように奮戦したものの、あえなく自害したと伝えられます。つまり織田家はこの変で、信長と嫡男を同時に失っているのです。

●徳川家康
のちに戦国の最終勝者となる徳川家康はこの時どうしていたでしょうか。実はこの時、家康は堺に滞在していました。信長に招かれて信長の居城・安土城を訪れ、さらに京都や堺を訪問していたためです。
そこに起こったのが本能寺の変です。おそらく家康は慌てふためいたことでしょう。突如死んでしまった大権力者。その影響は計り知れません。今まで抑えつけられていた反信長勢力が活動を始めるかもしれない。それでなくとも、信長という存在のなくなった国内は、しばらくは混乱し、危険な状態になるでしょう。そして、この時の家康は、今風の言い方をすれば「観光旅行中」といっていい状態であり、供の数もわずか数十名にすぎませんでした。しかも家康は、信長の同盟者という立場。要するに、いつ身に危険が及んでもおかしくないわけです。
ともかく家康は、自領の三河へと速やかに帰国することを企てます。帰国するといっても堺は今の大阪府、三河は今の愛知県東部。生半可な距離ではなく、帰国はほとんど不可能と思えるほどでした。
しかし家康は帰国への近道である伊賀を越え、どうにか伊勢までたどり着いて、そこから海路で三河へと帰還したのです。これが世に言う「神君伊賀越え」。家康は生涯に何度も命の危険にさらされていますが、これもそのうちの一つです。

以上、信長に関係する代表的な四人の消息を追ってみました。変に際して、タイミングよく、運よく動けた人間が、のちのち大きな力を掴むことになっているように思えます。権力者の死とは、やはり全ての運命を変えてしまうものなのでしょう。

 



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