慶安の変、という事件をご存知でしょうか。江戸時代に起こった反乱未遂事件です。歴史の授業では必ず習いますが、もしかしたらあまり記憶に残っていない方のほうが多いかもしれません。しかしこの慶安の変は、江戸時代前期のターニングポイントともいえる大きな意味を持つ事件です。今回はこの慶安の変についてご紹介しましょう。
由井正雪
慶安の変の首謀者は由井正雪という軍学者です。生まれた国は駿河(現在の静岡県)。出生の土地は由比とも駿府とも言われますが、はっきりしたことは分かりません。そもそも正雪の前半生には謎が多く、どのように育ったのか、なぜ軍学者になったのか、由井正雪という名の由来(由井はもともとの姓ではないとされます)など、分からないことばかりなのです。
しかしともかく、正雪は江戸に出て、軍学者として活動をはじめます。多くの弟子を取り、その中には大名の家臣や旗本など、身分のしっかりした武士も多くいたとされます。
さて、そんな折、江戸の町を大きなニュースが駆け巡ります。それは、将軍・徳川家光の死。そして、後を継いだのはわずか10歳の息子・家綱でした。
これを伝え聞いた正雪は、今が好機とさとります。つまり、幕府転覆計画実行の好機であると。
それではなぜ、正雪は幕府に叛旗を翻そうとしたのでしょうか。その動機について、最も有力な説が「巷に溢れる浪人を救おうとした」というものです。
実はこのころ、社会には浪人(仕える先のない武士、つまり失業者)が大量に発生していました。と、いうのも、当時は大名の減封(領地の削減)や改易(家の取り潰し)が盛んに行われていたためです。なぜなら、当時は江戸幕府の立ち上げから半世紀も経たない時期。政権をしっかりと固めるため、幕府は大名たちに厳しく接しました。幕府の定めたルールをしっかりと守らせることはもちろん、豊臣氏と関係の深かった大名、徳川と関係のよくない大名などは特に積極的に減封・改易の対象としたのです。その結果の浪人大量発生でした。
正雪はそんな政治に反発したのでしょう、彼を慕う浪人らとともに、幕府の転覆計画を立てるのです。絶対的な権力を誇った将軍・家光が死去し、幼君の立ったこの時は、計画実現の絶好の機会だったわけです。
壮大な計画とその顛末
正雪の計画とはどのようなものか、以下、ざっとその概要を並べます。
まず正雪自身は指揮を執るため、生国の駿河・久能山に籠もります。そして江戸においては丸橋忠弥を大将とする部隊を配置し、江戸に焼き討ちをかけます。さらに、その隙に江戸城へと入りこみ、将軍を奪って、駿河の正雪のもとへ届けます。
さらに、京と大坂においても動乱を起こし、京の二条城や大坂城を手中にします。しかるのち、正雪が駿府城において将軍とともに新しい政権を指導します。
計画とはこのようなものでした。これが実体の伴わないものであればただの夢想に過ぎませんが、正雪に協力しようとしていた浪人たちは、一説によると数千人の規模にもなっていたといいます。
だとしたら(成功したかどうかは別としても)、正雪の計画が実行されていれば、江戸幕府にとっては相当深刻なダメージをもたらしたであろうことは想像に難くありません。
しかし計画は頓挫しました。仲間の密告により、幕府に計画が漏れたからです。慶安4(1651)年の7月23日、まず江戸部隊の大将・丸橋忠弥が捕縛されました。ちなみに慶安の変は歌舞伎の題材になっており、中でもこの丸橋忠弥のエピソードは現在でも演じられる人気の演目です。
さて、肝心の正雪ですが、丸橋忠弥が捕らえられたころは、すでに駿河に向けて発っていました。幕府の追っ手はまもなく正雪を追い詰め、7月26日、ついに正雪は駿府の宿屋において自刃して果てます。京や大坂を襲うはずだった正雪の仲間も、次々に捕らえられ、あるいは自刃してゆきました。
変化の兆し
こうして正雪の計画は潰えたのですが、さて、その後の幕府政治はどうなったでしょうか?実は、こののち、幕府は浪人対策を行ったり、大名・旗本に対する厳しい締め付けを改める方向に進んだのです。たとえば、各藩にはたらきかけて浪人の再仕官を助けることを行いました。また、それまでにあった「末期養子の禁」を緩めるという変化もありました。末期養子の禁とは、ある大名や旗本の当主が、後継者の無いまま亡くなりそうなとき、緊急に養子をとってはいけない、というルールです。このルールにより、江戸時代初期には取り潰される家が続出したのです。しかし慶安の変をひとつのきっかけとして、幕府はこのルールを緩和しました。これによって浪人は減少し、大名や旗本の改易・減封も大幅に減ったのです。
要するに、変を一つの契機として、江戸時代が、厳格な武断政治の世から、穏やかな文治政治の世へとシフトしていったわけです。正雪の計画自体は頓挫し、本人もこの世を去りましたが、意外にもその目的だけは達成されたということになるでしょうか。
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