朱子学、という言葉を聞いたことがあるでしょうか。儒教から発展した学問の一派で、江戸時代に日本でも、幕府の認める公式な学問として栄えました。
今月とりあげるのは、この朱子学を打ち立てた中国の思想家、朱子です。
朱子誕生
中国の南宋時代、尤渓(ゆうけい)県というところ(現在の福建省あたり)に朱子は誕生しました。中国で「〜子」といえば敬称にあたります。朱子の場合もほんとうの名(諱・いみな)は熹、つまり朱熹という名なのですが、ここでは朱子で通します。
朱子の父は朱松といい、朝廷で働く役人でした。しかし異民族に対する講和策に反対したため、中央から地方へと追いやられ、その後は学問をして過ごしたという人物です。
朱子はそんな父のもとに生まれ、父と同じように学問を志します。幼いころの朱子はかなり優秀で、超がつくほど難関だった役人登用試験・科挙にはわずか19歳で合格しています。
儒教一本で
こうして朱子は地方官に任命され、租税や儀礼などの分野で一定の実績をあげます。そして、このころ出会ったのが師といえる李延平という人物でした。李延平は儒教の学者で、当時勢いを失っていた儒教を復活させ、いわば「新しい儒教」を確立しようとしていた学者の一人です。当時の朱子は儒教、道教、禅などを学んでおり、これは当時の学者としては普通のことだったのですが、この李延平との出会いにより、朱子は儒教一本で進もうと決意します。
役人として学者として
以後、朱子は自らの学問「朱子学」を究めつつ、役人・政治家としても活動を続けました。始めのころはおもに地方官として働き、例えば飢饉・難民対策として、備蓄米にかんする政策で実績をあげています。さらに学者らしく、教育関係の活動にも熱心で、かつて隆盛を誇ったものの廃れていた「白鹿洞書院」という学堂を復興させたりしています。こうした実績を積み重ねた結果、中央に召し出されることも度々で、皇帝と謁見することさえ許されるほどになりました。
しかしながら朱子は仕事に対して厳格で、周囲に対する批判や弾劾も積極的に行ったため、政敵もありました。このために朱子の学問、つまり朱子学は、彼の晩年に至って規制されます。いや、規制という程度ではなく、偽学としてはっきりと禁止・攻撃されることとなったのです。そして、こうした逆境の中、朱子は生涯を終えます。70歳のことでした。
しかし、朱子学への逆風はそれほど長くは続きませんでした。彼の死からほどなくして朱子学への攻撃はおさまり、その後、長く中国大陸で学ばれ続けることになるのです。
朱子学と日本
さて、最後に、朱子学の内容と、日本との関係について少し触れておきましょう。
朱子学とは一つの哲学ですが、以下のような主張を持っています。世の万物は、「理」と「気」から成り立っている。「理」とはものの在り方を決定する原理のようなもの、「気」とはものを形作る物質的な根源。これら二者が合わさることで万物は出来上がっているというのです。
これは人間についても同じことだと朱子は言います。「気」によって身体は出来上がり、その中に「理」が宿っている。人は自らの中の「理」が本性としてあるが、「気」の働きのせいで心や身体に悪い影響が出てしまう。この不完全さを取り除き、本性を「理」に近づけるのが学問である…
これがごく簡単に表現した朱子学のアウトラインです。「理」というキーワードが示すとおり、非常に理知的で、一言で言えば朱子学とは「理」の学問であるとも言われます。
日本における朱子学は、江戸時代の官学というイメージが強いですが、朱子の生没年が示すとおり、その成立は日本でいう平安時代の末期にあたります。ですから、鎌倉時代には日本でも朱子学は知られていました。それが爆発的に広まるのはやはり江戸時代のことで、当時の儒学者・藤原惺窩が研究し、さらにその弟子・林羅山が徳川家に仕えるに至り、江戸幕府の公式学問となりました。
以後、朱子学は日本全国で学ばれるようになりました。これにはむろん、マイナスの側面もあったには違いありませんが、「理」を重んじるその学説が、日本においては合理的思考を重んずる空気を育てたとも言われ、これが近代における西洋思想のスムーズな受容の下地になったという意見もあります。
いずれにしても、朱子学がその後の日本人の考え方や行動に大きな影響を及ぼしたことには違いありません。
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