今からおよそ300年前、富士山の噴火がありました。これは宝永の大噴火、などと呼ばれます。今月はこの宝永噴火を中心に、有史以来幾度か起こっている富士山の噴火について見ていきましょう。
歴史の中の富士噴火
富士山が今も活動している火山(活火山)であるという事実は、今は広く知れ渡っていることと思います。そもそもこの富士山の火山活動というものは、この数千年間続いています。日本の歴史に残されているものですと、まず平安時代に活発な活動期がありました。
平安時代にできた『竹取物語』は、多くの人がご存知かと思いますが、この物語にも、富士山の火山活動の跡が刻まれています。ラストシーンを思い出してみてください。月へと帰る際、かぐや姫は帝に手紙と不死の薬を残してゆきます。しかし悲しんだ帝は、そんなものが何になろうか、と、薬と手紙を富士山で燃やすよう命じます。その時の煙が、今も富士山に立ち昇っている…というラストでした。
このシーンはつまり、当時の富士山が常に噴煙を上げていたことを示しているわけです。ちなみに、歌集『万葉集』などにも、富士の噴煙を詠んだ歌が多く残されています。
さて、そんな平安時代に起こった大きな噴火は2度。延暦の噴火(延暦19・800年)と貞観の噴火(貞観6・864年)です。貞観の噴火は特に大規模で、火山礫や火山灰が大量に降り注ぎました。さらに、大量の溶岩が流れ出て、富士のふもとにあった巨大な湖に流れ込み、湖を分断しました。富士五湖のうち、西湖と精進湖はこの時に形作られたものです。
江戸時代の大噴火
その数百年後に起こったのが、宝永の大噴火です。西暦でいうと1707年。日本では江戸時代です。将軍は徳川綱吉でした。ちなみに、綱吉の次の時代を担うことになる新井白石はこの噴火を経験しており、自らの随筆「折たく柴の記」に「雪が降るようだったが、よく見ると白い灰であった」などと、その時の様子を書き残してます。
さて、噴火のひと月前には宝永の大地震と呼ばれる巨大地震も起こっています。震源は紀伊半島の沖あたりで、東海地方〜関西地方を中心に強く揺れ、それ以外の広い地域でも揺れたと記録されています。この地震が富士山の噴火と強く関連していると言われます。
そしてついに起こったのが富士山の噴火。宝永の大噴火です。はじまったのは宝永4(1707)11月23日。午前のことでした。火山噴火というと、まさに山のてっぺんからドカンドカンとマグマが吹き上げるようなさまを想像しがちですが、この噴火はちょっと違います。富士山の東南側の「斜面」からの噴火でした。当時の絵図をみると、まさに富士の「横っ腹」が破れ、煙や溶岩が噴出しているさまが見て取れます。
噴火は巨大な音とともにはじまり、周辺の広い範囲に火山礫や火山灰などの噴出物が降り注ぎました。富士山から離れた江戸にも影響は及び、火山灰のせいで昼も暗く、灰除けに傘をさす人もいたようです。噴火はおよそ20日間でおさまったものの、作物の不作はこのあと長く続き、飢えに苦しむ人々が多く現れました。
そしてこの噴火によって、富士山腹に、ちょっと出っ張ったような新しい山ができました。これを宝永山といいます。また、えぐれたような大きなくぼみが当時の火口で、これは宝永火口といいます。
現代に生きる「火山情報」
宝永の大噴火以後、富士山には目立った噴火活動は見られませんが、近年、富士山噴火の危険性が叫ばれることが多くなっています。そして、その具体的な被害や対策を想定する際、大いに参考となるのが宝永の大噴火の様子です。300年前とはいえ「前回」の噴火なのですから、得られるものは大きいのです。その意味では、宝永の大噴火は、歴史であって歴史でない、現代に活かされるべき「火山情報」なのかもしれません。
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