現在、誰もが知る科学論の一つが「進化論」。単純な生物が、長い時間をかけて進化・枝分かれし、現代の生物たちとなった…この「進化論」の生みの親がダーウィンです。
今月はこのダーウィンの生涯を見てみましょう。
学問の日々
ダーウィンは1809年2月12日に、イギリスはシュロップシャー州のシュローズベリーという町で生まれました。日本での1809年は江戸時代の後期。年号でいうと文化6年で、化政文化の時代の真っ只中です。
ダーウィンの父は医師で、家は裕福でした。祖父は有名な生物学者。のちに進化生物学で名を馳せるダーウィンですが、この祖父も、進化論の原型にあたるような学説を唱えています。
ダーウィンの家族について、さらにもう一つ。ダーウィンの母は、現在も製陶業者として世界的に知られるウェッジウッド家の娘です。
さて、少年期のダーウィンは地元の学校へと通いました。やがて成長すると、名門・エディンバラ大学で医学を学びます。しかしながら、ダーウィンに医学は向いていなかったらしく、学位をとることなく退学しました。
とはいえ、ダーウィンはこれで学問の世界から離れるわけではありません。ダーウィンは医学よりも、動植物や鉱物等、自然界にあるものたちの研究、つまり博物学に魅せられていました。ですから、医学をやめても、そういった方面に関わっている学者たちと付き合いを深め、知識や経験を獲得してゆくのです。
そしてその後、ダーウィンは父の意向もあり、ケンブリッジ大学で神学を学びはじめます。むろん、博物学から手を引いたわけではありません。むしろ、ますます博物学への傾倒は深まっていきます。しかし、ひとまずケンブリッジ大学を挫折することはなく、22歳の年に無事卒業しています。
そして卒業後すぐ、ダーウィンにあるチャンスが訪れます。そのチャンスこそが、その後のダーウィンの運命を決定付けるものでした。
ビーグル号へ
ダーウィンが得たチャンス、それはイギリス海軍の調査船「ビーグル号」への乗船機会でした。ビーグル号の目的は、南米大陸から太平洋はオーストラリアにまで及ぶ広大な領域での調査や沿岸測量。ダーウィンはこのビーグル号に博物学者として乗り込むことになったのです。
ビーグル号の航海はおよそ5年におよびました。たどったのはイギリスから南米大陸の南端を回って、ニュージーランド、オーストラリアへと渡り、そこからアフリカ大陸南端を経由して南米大陸へと戻りイギリスへと帰着するという世界一周ルートです。
言うまでもなくこの旅は、若きダーウィンにとってたいへん実り深いものとなりました。中でも、南米大陸からガラパゴス諸島への航海で得た知見は重要でした。例えば、南米大陸を南北に移動していくと、近い種類の生物が少しずつ入れ替わっていくことや、周囲から切り離された環境であるはずのガラパゴス諸島の生物が、明らかに南米大陸に由来していると思われること。さらに、この小さな島々には、似ているが少しずつ異なる生物が棲んでいること。これらの事実は、生物の種がはるか昔から不変である、という固定観念を見直すきっかけとなりました。この航海はのちに『ビーグル号航海記』という書物にまとめられています。
種の起源
帰国後、ダーウィンは旅で得た成果を活かしつつ、生物の種についての研究を進めました。その結果たどりついたのが「自然選択説」です。自然選択説。簡単にいえば、生物は遺伝によって変異し、生存に有利な変異をもった生物が残ってゆくというものです。そして、その繰り返しによって起こるのが進化だというわけです。
そして、その結果生み出された書物が、大著『種の起源』です。出版はダーウィンが50歳の時。ビーグル号の航海が終わってから、実に23年の時が過ぎていました。『種の起源』は当時としてはかなり売れ、学界で大きな反響がありました。自然選択説と進化論を支持する意見もありましたが、生物のあり方に神が介在しないこの学説は、当時の倫理に照らせば受け入れがたく、そちらに由来する反発も大きかったのです。(ちなみに、21世紀の現代においてさえ、この種の反発は、小さくない規模で存在しているくらいです)
しかし、ダーウィンの進化論は時が経つにつれ、徐々に支持を増やしていきました。遺伝学の進歩や、周辺の研究が進むと、どうやらこの説は正しいらしい、少なくとも否定に足る根拠が乏しいと分かってきたからです。
ダーウィンはその後も研究を続け、73歳で亡くなりました。葬儀は国葬でしたから、晩年にはかれの業績は全イギリスに認められていたということになります。
進化論の確立者
進化論というのは、ダーウィンの独創ではありません。先にも書いたとおり、ダーウィンの祖父からしてその原型ともいえる考えを持っていましたし、ラマルクという科学者は用不用説というという、種の変化に関する説を唱えていました。しかし先行する説は、いずれも根拠や論理という部分に弱点がありました。
ダーウィンの進化論はこれらの説より、証拠になる事象をずっと多く集め、科学的に、系統立てて進化を論じていました。だからこそ支持を増やしていったのです。その基盤にはあのビーグル号での航海がありました。
現在ではダーウィンの進化論は(当時のままではないにせよ)完全に受け入れられ、生物学の土台となっています。
とはいえ、21世紀の現代においてさえ、未だに議論の的となることもあります。本当に生物の存在に対して、神の力は介在していないのか。確かに、アメーバのようなものが長い時間をかけてサルになり、サルが人になったと言われれば、理屈では分かっても、人間の感覚ではぴんとこない部分もあります。進化論というのは、さまざまな点で難しいもののようです。
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