「羅生門」といえば、日本人ならば誰もが読んだ小説の一つ。今月とりあげるのは、そんな「羅生門」ほか、有名な短編作品を著した大作家・芥川龍之介です。
芥川龍之介の誕生
芥川龍之介が生まれたのは1892年の3月1日。年号で言うと明治25年で、維新後の不安定さもようやくおさまり、憲法が施行されて内閣制度も始まったころです。そんな時代に、芥川龍之介は牛乳販売業者の長男として誕生しました。
龍之介の誕生後すぐ、一家を不幸が襲っています。龍之介の母が心の病を患ったのです。これをきっかけに龍之介は母の実家に預けられ、やがてその養子となりました。この家が芥川家でした。つまり、「芥川龍之介」はこのような事情で誕生したということになります。
なお、母は龍之介が11歳のころに亡くなっています。母が精神を患って亡くなったという事実は、作家・芥川龍之介の心に大きな影を落としたとも言われています。
一高へ
やがて龍之介は第一高等学校に入学します。高等学校と名はついていますが、これは現代の高校とはまったく異なるもので、無理に例えるなら現在の大学レベルの教育機関です。しかも、一高(第一高等学校)卒業者の多くはこれよりさらに上の教育機関である東京帝国大学へと進学するならいでした。ともかくとんでもない難関・エリート校であったのです。もちろん龍之介も、一高から東京帝大(英文学科)という超エリートコースをたどりました。このことからわかるように、龍之介の学問的素養はきわめて高いものでした。
ちなみに、一高時代に出会ったのが、のちに文藝春秋社を設立し、文学者としても有名になる菊池寛です。また、龍之介はこのころ、この菊池や他の仲間とともに『新思潮』という同人誌を出します。
この同人誌において発表した「鼻」という作品が、かの文豪夏目漱石に激賞され、文壇にはなばなしく躍り出た…というのはよく知られるところでしょう。
冒頭で触れた「羅生門」もこのころの作品です。高校の教科書にも載っており、一説には日本人に最もよく読まれた純文学作品とも。と、いうことはこの超有名作品は、当時無名の学生が書いたものということになりますから、大したものです。
ちなみに、龍之介の作品はほとんどが短編です。「鼻」「羅生門」も短編。初期の作品は『宇治拾遺物語』『今昔物語集』など、古い説話集から題材をとったものが主です。その後、同時代をテーマとしたものも増え、「トロッコ」「歯車」「或る阿呆の一生」「河童」といった作品を著しました。しかし長編小説は向いていなかったらしく、しっかりとした長編小説はついにひとつも残すことはできませんでした。
卒業、そして作家に
東京帝国大学を優秀な成績で卒業した龍之介はまず海軍系学校の英語教師として就職します。むろん、そのかたわらで創作活動を精力的に継続し、第一短編集もこのころに出版しています。その後、27歳の年にこの職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞社付きの作家になるような形での『入社』というシステムがこの時代にはありました)し、作家活動に集中するようになります。
この時期の龍之介は、私生活でも結婚という大きな出来事がありました。しかしその一方で体調不良にも悩まされるようにもなり、作品の傾向も変わってゆきます。それがさきほど触れた、同時代テーマの作品群であり、自らの心中をさらけ出すかのような内容も見られ、生と死を扱うような重いテーマが増えてゆきました。
そしてこのような状況の中、辛い出来事が数々龍之介を襲います。1925年には関東大震災が発生しました。姉の夫が自殺し、その家族の面倒を見るというようなことも起こりました。龍之介はますます体調を崩してゆきます。
自ら…
芥川龍之介がこの世を去ったのは、1927年の7月24日のことです。最後の作品は「続西方の人」。それを書き上げると龍之介は薬品によって自殺しました(睡眠薬とされます)。35歳という若さでした。
見つかった遺書には「僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」という動機らしき一文が含まれていました。
龍之介の死後、親友で葬儀において友人総代もつとめた菊池寛が、一つの文学賞を立ち上げました。それが「芥川賞」です。中短編を対象とするこの賞は、いまや文壇最高峰の新人賞にまでなっています。
龍之介が亡くなった7月24日は、かれの作品にちなみ「河童忌」といいます。
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