足利尊氏。言わずと知れた室町幕府の初代将軍ですが、それ以外の情報は、案外知られていないのではないでしょうか。鎌倉幕府と後醍醐天皇が戦った際、尊氏は幕府方から天皇方へと寝返りました。その意思を示したとされるのが元弘3(1331)の4月29日です。今回は、この日に至るまでの尊氏について触れます。その途中、足利氏についても多少ご紹介したいと思います。
その誕生
足利尊氏は嘉元3(1305)年に誕生しました。生まれ月は7月とも言われますが、はっきりしません。
父親は鎌倉幕府の有力御家人であった足利貞氏、母は上杉氏の娘です。幼名は又太郎、長じて高氏と名乗り、のちに尊氏と名乗ります。ここではひとまず尊氏で通します。
ところで、尊氏の誕生時の伝説が「難太平記」という室町時代初期の書物に書かれています。それは、尊氏の誕生の際、2羽の山鳩が飛来し、1羽は尊氏の左肩に、もう1羽はひしゃくにとまったというものです。
山鳩が八幡神(武の神様とされる)の使いとされていたための伝説でしょう。
足利氏とは何か
ここで「足利氏」について少々ご紹介しておきましょう。のちに将軍となる足利氏ですが、もともと古代から続く「足利氏」という何か独立した一つの家、勢力があったわけではありません。本来足利氏は「源氏」の一族、それも源氏の中軸ともいえる「河内源氏」から分かれた家でした。
源氏にもさまざまあり、そのうち清和天皇から出たのがいわゆる清和源氏です。その清和源氏もさまざまな系統に分かれますが、そのうちで大勢力となったのが河内源氏。この系統からは源頼朝が出ますから、世間で何気なく「源氏」といえば、この河内源氏を指しているといってもいいのかも知れません。
さて、この河内源氏の棟梁(リーダー)に源義家という有名な武士がいますが、この息子・源義国が下野国の足利という地を与えられ、その子・源義康が足利義康を名乗って始まったのが足利氏です。ですから足利氏は、鎌倉幕府においては、初代将軍・源頼朝と同じ、河内源氏を先祖とする大変な名門でした。頼朝を総大将とするいわゆる源平の争いにもむろん参加し、戦勝後は有力御家人の一つとして幕政に参画しました。幕府成立後、源氏の将軍は3代で絶えますが、それ以後も足利氏は執権・北条氏との縁戚関係を通じ、その勢力を維持してゆきます。
元弘の変
足利尊氏に話を戻します。以上のような名家に誕生した尊氏は満年齢で14歳のときに元服、時の執権・北条高時の名の一字をもらって「高氏」と名乗ります。さらに、後に執権となる北条守時の妹・登子(とうし、あるいはなりこ)を妻としました。
さて、この時期、政情は不穏でした。後醍醐天皇は皇位継承のトラブル等から幕府に反感を強め、ついに元弘元(1331)年、討幕の兵を挙げます。これが元弘の変です。この変においては天皇方は敗れ、後醍醐天皇は隠岐へ流罪となります。
この際、尊氏は鎌倉幕府方として参戦しました。しかし、当初尊氏は参戦を辞退していました。実はこのころ、父が亡くなって間もない時期だった、つまり喪に服していたためです。しかしこの願いは聞き入れられず、尊氏は結局参戦しています。このために、尊氏は幕府に反感を募らせることになったと『太平記(※)』は伝えています。
※室町初〜中期に成立したとされる文学作品。倒幕から南北朝時代のころまでのできごとが記されている。
倒幕の功労者
隠岐に流された後醍醐天皇でしたが、その手勢である楠木正成らは生き残って、しぶとく抗戦を続けるなどしていました。これで倒幕の機運は高まり、天皇も隠岐を脱出してふたたび戦いを始めます。
尊氏はこのときも幕府の命に従って、天皇勢と戦うために出陣します。しかし天皇からの誘いもあって途中で態度を変え、冒頭で記した元弘3(1333年)の4月29日、丹波・篠村八幡宮で討幕の兵を挙げるのです。このときの動機のひとつとして、先に書いた喪中の出動命令があったともされます。
以後の戦況は一方的でした。尊氏らによって京都はあっという間に制圧され、鎌倉もまもなく陥落し、幕府はついに滅亡するのです。尊氏はその働きを激賞され、領地や位階を与えられたほか、天皇の名「尊治」の一字を与えられ、高氏から「尊氏」と名を変えます。
ここから後醍醐天皇のいわゆる建武の新政がスタートするわけですが、天皇と尊氏はやがて対立し、尊氏は自ら幕府を開くこととなってゆくのは、よく知られている通りです。
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