近代経済学は彼から始まったとまで言われる偉大な経済学者がアダム・スミスです。代表作である『国富論』は経済学の世界だけではなく、さまざまな分野に影響を与えてきました。今月はこのアダム・スミスの生涯を追ってみましょう。
学生時代
アダム・スミスが生まれたのは1723年のこと。日本でいえば江戸時代中期、8代将軍・徳川吉宗による享保の改革が進められていたころです。
スミスの出生日ははっきりしませんが、6月5日に洗礼を受けたことが伝わっています。生まれたのはイギリス・スコットランドのカーコールディという町です。父親は役人をつとめていましたが、スミスが生まれる少し前にこの世を去っています。しかし、父の遺産があったため、それで一家が困窮したということはなかったようです。
7歳ごろ、スミスは地元の学校に入学しました。この学校は大学の予備教育を行っているようなところで、スミスはここで英語とラテン語を学びました(スミスの生まれたスコットランドでは、英語ではなくスコットランド語が話されていました)。
そうして14歳ごろ、スミスはカーコールディの西にある都市・グラスゴーのグラスゴー大学へと入学します。ちなみに、14歳で大学に入学というのは当時としてはおかしなことではなく、むしろ年齢的には遅いくらいです。
スミスは大学で主に道徳哲学を学びました。ここでの日々は実り多いものだったようです。17歳になったころにはオックスフォード大学へと入学しますが、逆にここでの日々はあまりいいものではなかったようです。学問的にも得るものは少なく、また、スコットランド出身のスミスにとって、イングランドのオックスフォード大は居心地のいいところでもなかったからです。それでもスミスはオックスフォードに6年おり、その後退学して地元へと帰りました。
学者として有名に
その後、スミスはカーコールディに近い都市・エディンバラにおいて文学や道徳哲学を教える公開講義を行い、これが好評を得て、やがてグラスゴー大学の教授となります。これが28歳のころです。
この大学教授時代に著したスミスの代表作のひとつが『道徳感情の理論』という書物です。これは経済学の書ではなく、ごく簡単に言えば、見知らぬ人々同士が「共感」によってまとまり、社会を形作っているとする内容です。
この『道徳感情の理論』は大変な評判を呼び、これによってスミスは一流の学者として広く知られるようになります。そして、40歳のころには大学教授をやめ、バックルー公爵という若い貴族の家庭教師として、フランスへの長い旅行へと出ます。この旅行においてスミスは、フランスのさまざまな知識層と交流を持ち、3年後に帰国。そこからかの有名な『国富論』の執筆を始めます。
国富論
『国富論』が出版されたのは1776年のこと。スミス53歳の年です。これは書名の通り、国の富について分析した書です。それまでは、国富といえば、金や銀をいかに手に入れるかということとイコールでした。しかしスミスは、それら金銀を手に入れるにとどまらず、金銀を使って、さまざまなものを輸入することも説きました。これらの輸入品によって国民の暮らしが豊かになる、それが富だというのです。
もう一つ、スミスは「見えざる手」についても説きました。人々は自らの利益を追求して活動しますが、それこそが社会の分業を形作り、しかもそれによって自動的に生産や資源を分配する機能が働く、という考え方です。
この『国富論』はスミスの名声を非常に高めました。しかしスミスはこれによって何か高い位に昇ろうとは考えなかったらしく、出版の翌年にはエディンバラの税関委員の職に就いています。ただ、この職は役人とはいえ非常な高収入で、その面から言えば大学教授などよりずっと上だったといいます。
死去
スミスは税関委員の職をこなしつつ、その後も『道徳感情の理論』や『国富論』の増補改訂を続けました。しかし『国富論』執筆が彼の生命力をけずりとったのか、その後は健康問題に悩まされるようになります。60代の後半にはスミスの体調は非常に悪化し、かれはついに、未完成の原稿類の大半を焼却するよう友人に頼みました。そうして1790年の7月17日、スミスはこの世を去ったのです。スミスは生前、大きな収入を得ていましたが、その多くを慈善事業に遣っていたらしく、死後に残った財産は多くはなかったといいます。また、生前に出版された著作は、いくらかの論文類をのぞけば、『道徳感情の理論』『国富論』のみでした。いずれの著作も高い評価を受けていますが、とくに『国富論』は以後の経済学を作り出すきっかけになった不朽の名作として、今なお賞賛を受けています。
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