日本でもよく知られる画家、エドガー・ドガ。踊り子(バレリーナ)を主題にした作品が有名です。今月はこのドガの生涯を追ってみたいと思います。
古典に惹かれて
エドガー・ドガが誕生したのは1834年のこと。日本では江戸時代の後期、天保時代にあたります。
ドガの父は銀行家です。大画家というと、何か非常な貧窮の中で育ち、長じてからも不遇の中で暮らしていたようなイメージでとらえられがちですが、ドガの場合は全くそうではなかったようです。家はそれなりに裕福で、芸術や学問に親しむような環境でした。
高校を出たドガは、21歳の頃にエコール・デ・ボザールという名門の美術学校に入学。アングルの弟子にあたるルイ・ラモートに師事します。また、実際にアングルとも会って、大変な影響を受けたといいます。
このアングルという画家も絵画史においては巨人と言える人物で、
古典的な手法を研究・継承しながらも新しさを備え、以後の絵画に大変な影響を与えました。ドガもそのひとりだったということになります。
その後、ドガはイタリアへ行きます。そこで古典的な芸術に触れ、やがてパリに戻ると、はじめは歴史画などの伝統的な画題を描き、それから段々と現代の風景を描くことに軸足を定めてゆきます。それはすなわち、パリの街中の情景、競馬場や劇場、バー、そして踊り子たちやその練習場などです。これらの作品を通して、ドガは画家としての名声を高め、40歳の頃までには人気画家になっていたようです。
「印象派」ドガ
ドガは一般的には「印象派」の画家の一人として数えられます。
印象派とは19世紀後半にパリで起こった絵画の一つの流れ、運動のことです。印象派は、それまでの伝統的な画題や技法、構図にとらわれない制作をおこないました。特に、光の動きをとらえることを重視したのは印象派の大きな特徴です。それまでの絵画は室内(アトリエ)で描かれるのが常識でしたが、印象派は戸外に飛び出し、そこで自然の光と向き合いながら描きました。タッチも非常に大胆で、古典的な絵画のように細密な感じではありません。近づいてみると、単に絵の具が塗りたくられているだけに見えるほどです。
さて、ドガも印象派に数えられるほどですから、印象派の特徴を持ち合わせていたことは確かですが、ふつう印象派と言われる人々とちょっと違った部分も持っていました。ドガという画家は、印象派の新しい考え方、やり方よりも、先ほど登場したアングルのような、古典的な考え方を基本としていました。印象派一流の、日常の一瞬の風景を切り取ったような構図。ドガの絵画もそのように見えるのですが、実はドガの絵画の場合は綿密に、緻密に計算されつくした古典的な構図の創造法に立ってつくられたものです。戸外での制作についても、ドガは全く重視していません。風景画も重視しておらず、一瞬の光と影を写し取るという方法とは、ドガの絵画は一線を画していたようです。
だからといってドガは印象派と全く関係がないかといったら、そうではなく、印象派の画家たちがおこなった展覧会のほとんど全てに参加しています。大胆なタッチも印象派のそれと共通しています。印象派の若い画家(ドガは印象派の中では年上のほうです)から、さまざまな影響や刺激は受けていたのでしょう。
印象派といえば、北斎や広重といった日本の「浮世絵」から影響を受けていたことはよく知られています。ドガも浮世絵からはかなりの影響を受けています。特に構図の影響は大きく、ドガの絵画に見られる、遠景と近景を大胆に対比させたような構図や、それまでの西洋絵画には見られない、一見アンバランスに配置されたような構図は浮世絵からの影響だと指摘されています。
また、先ほども触れたように、ドガは踊り子・バレリーナという題材に大変惹かれていました。とくに練習場の様子や楽屋における踊り子を描いた作品が多いのはドガの大きな特徴です。優美で繊細な踊り子たちがふと見せる舞台裏での様子が、ドガの心には強く響いたようです。
その死
順調に見えたドガの画家人生にかげりが見え始めたのは、40代の半ばころからです。それは人気がなくなったとかスランプとかいったものではなく、視力の低下という身体的な事情でした。以後、視力は衰え続け、晩年にはほとんど失明状態になってしまったといいます。ドガは内気で頑固、あまり性格がいいとは言えない人物で、友人も少なく、後半生は大変孤独だったといいます。ただそれでも制作活動は少しずつ継続しており、絵画だけではなくブロンズ像なども制作しています。
ドガが亡くなったのは1917年の9月27日のこと。83歳でした。
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