おそらくその名を知らぬ人はいないでしょう。18〜19世紀フランスの軍人にして政治家、そしてついに皇帝にまでなった人物・ナポレオン。ある人は彼を英雄と言い、ある人は独裁者とも言います。
その生涯は波乱に満ち、事績やエピソードも数多あります。一度ではとてもご紹介しきれるものではなく、今回はその若い時代に的を絞ってご紹介しようと思います。
フランス人ではない?
ナポレオンが生まれたのは1769年のことです。日本でいうと江戸時代の中期。八代将軍・徳川吉宗の時代が終わり、田沼意次が政治をとりしきる時代に入りつつある頃です。
生誕の地は地中海西部に浮かぶ島、コルシカ島。紀元前から歴史に登場し、独自の文化も持っている島です。
コルシカ島ははるか昔から、さまざまな勢力がその覇権を競った島でした。この時期にはイタリアの自治都市・ジェノバの支配下にあり、しかも独立運動までがくすぶっていたというま複雑な状態でしたが、次にフランスの支配下となり、それとほぼ同時期にナポレオンが誕生しています。父は島の有力家系の出、しかもこのときのフランスの協力者でもあり、それによりさまざまな特権を得た人物です。つまりナポレオンは、フランスの英雄でありながら、その出自は生粋のフランス人とは言えず、権力を得た後年、これによる批判にもさらされることがありました。
学生時代
ナポレオンの父はなかなか教育熱心だったようで、ナポレオンとその兄をフランスに送るため、各所を駆け回りました。そのかいあってナポレオンは10歳のとき、フランス本土の陸軍幼年学校へ入学することができました。その後ナポレオンはパリの士官学校(砲兵科)へと進み、わずか1年という短期間で卒業しました。これはナポレオン自身が優秀だったということもあったようですが、父がこの時期に急死したため、早く卒業しなければならなかったという事情もありました。ナポレオンが16歳の年の話です。
学生時代のナポレオンはどんな少年だったのでしょう。どうやら後の英雄らしくない、寡黙でとっつきにくい性格をしていたようです。地方出身者だということも、そのことに影響していたかもしれません。それでなくとも、士官学校というのは貴族の子弟ばかりが通う学校で、ナポレオンはいつもこりつしていたのです。
数学が得意だったという話が伝わっていますが、文学、とくに当時勢いが高まっていた啓蒙思想書なども愛好していました。
故郷との別れ
軍人となったナポレオンでしたが、やがてフランス革命という歴史上の一大事件が起こりました。しかしながら、ナポレオンは革命そのものよりも、コルシカ島と自分の一族のことが気にかかっていたようで、この時期も故郷のコルシカ島とフランス本土をいったりきたりする生活を送っていました。
しかしながら、革命の混乱はコルシカ島のあり方にも影響を及ぼします。かねてからコルシカ島には独立運動がくすぶっていたのですが、このころ、フランスにとどまるべきという勢力と、独立を支持する勢力が対立を開始するのです。ナポレオンは独立派の指導者であったパオリという人物を尊敬していたため、はじめ独立派を支持していましたが、この独立運動に関わるうち、パオリと対立してゆきます。この対立はやがて決定的なものとなり、ナポレオン一家はコルシカ島を追われ、フランス本土へと渡ることとなったのです。このとき、ナポレオンは24歳になっていました。
「英雄」のめばえ
ナポレオンがフランスに渡ったころ、革命の激動はまだ続いていました。すでに国王は処刑され、ロベスピエールという人物が指導する急進的な独裁政治の時期に入っており、ナポレオンはこの政権下で軍人として活動します。特に実績を挙げたのは軍港・トゥーロンにおける戦い。ナポレオンの進言によって戦いは革命政府側の勝利に終わり、ナポレオンも大昇進するのです。
その後すぐロベスピエールは失脚し、ロベスピエール派との親交を理由に、ナポレオンも拘留・謹慎の処分を受けます。
普通ならばここでナポレオンの出世も終わり、といったところでしょうが、実際はそうはなりませんでした。この頃にパリで大きな反乱が起こり、ナポレオンは司令官から鎮圧作戦の指揮を任されたのです。そしてナポレオンは、この任務を見事に成し遂げ、さらに昇進を遂げるのです。このときナポレオンは26歳。もはやフランス国民からは、はっきりと若き英雄として認識される存在となっていました。
その後、ナポレオンは対ヨーロッパとの戦争を通してその名をさらに高め、やがて政権を掌握します。それと同時にナポレオン戦争とも呼ばれる、ヨーロッパ全土を巻き込む戦争に乗り出してゆくのですが、このあたりはまた別の機会にご紹介することにし、今月はここまでといたします。
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