今月ご紹介するのは、平安時代末期の天皇・後白河天皇です。早くに退位して、その後長く院政を行った人物です。公家から武家へ、権力が移り変わるちょうどその瞬間に、最高権力者として活動した後白河天皇。今回はその前半生をご紹介します。
皇位とは無縁の若年期
後白河天皇が誕生したのは大治2(1127)年の9月11日。本格的な院政を行った最初の天皇とされる白河天皇のひ孫にあたります。父はこれまた強力な院政を行ったことで知られる鳥羽天皇で、後白河天皇はその第4番目の皇子です。
第4番目の皇子とはいえ、兄たちが病弱だったために皇位を継承する可能性もあったのですが、父の鳥羽上皇が寵愛する藤原得子の子(近衛天皇)が即位するなどのことがあり、結局は皇位争いからはほとんど無縁の少年時代・青年時代を過ごしました。
この時期、雅仁親王(のちの後白河天皇)が傾倒したのが「今様」です。今様とは当時の歌曲の一種で、意味は「今風の」「現代的な」というところ。つまり、当時の流行歌といったものです。雅仁親王はこれに夢中になったわけですが、若者の熱中といった程度ののめりこみ方ではなかったようで、昼も夜もなく歌いまくり、声が出なくなることもあったと伝わっています。この趣味はのちに天皇、上皇となってからも続き、今様の歌詞集『梁塵秘抄』を作り上げたほどでした。
思いがけず天皇に
雅仁親王が28歳の年、先ほど触れた近衛天皇が崩御しました。次の天皇選びは難航しました。詳しい説明は控えますが、当時の皇位継承候補としては、譲位していた崇徳上皇の息子・重仁親王がいましたが、鳥羽上皇がこれを許さなかったからです。鳥羽上皇は、雅仁親王の息子である守仁親王の即位を望みました。しかしながら、父親の雅仁親王をさしおいての即位はさすがに避けられ、ついに雅仁親王の即位が決定されたのです。後白河天皇はこうして即位しました。
しかし、この今様ばかり歌っていた天皇が政治をしっかり動かしていけると考えた者などなく、後白河の立場はあくまで、守仁親王が即位するまでのワンポイントリリーフといったものでした。しかしながら、この期待されていなかった天皇が、平安末の乱世をしたたかに操ってゆくのですから、歴史とは分からないものです。
二度の大乱
後白河天皇が即位した翌年、鳥羽上皇が崩御しました。これを気に、朝廷内のひずみが一気に表面化してゆきます。皇位から遠ざけられた崇徳上皇と、皇位を手中にした後白河天皇の争い。ここに貴族同士の勢力争いと、当時勃興しつつあった武家勢力のパワーが複雑に絡み合い、とうとう起こったのが「保元の乱」でした。
乱は後白河天皇方の勝利に終わります。崇徳上皇や上皇についた貴族らは表舞台から姿を消し、天皇方の貴族らが政治の実権を握りました。
続いて起こったのが平治の乱。保元の乱ののち、当初の予定通り守仁親王が二条天皇として即位し、後白河天皇は上皇となって院政を開始します。この二条天皇と後白河上皇の間の権力争いに、やはりその時の貴族、武士らの争いがかぶさって進行しました。乱は二条天皇派の勝利に終わり、後白河上皇派は力を失います。なお、この乱で大きな役割を果たしたのが、かの平清盛で、後に平氏政権を築くまでになる出世のきっかけを掴みました。
失脚と復活
しかしこの後、二条天皇が政治の実権を握り、後白河上皇が歴史の表舞台から姿を消したかというと、話はそうすんなりとは進みません。天皇派と上皇派が並び立つ形の政権となったり、上皇が完全に失脚したり、...と、さまざまなことが起こるのですが、そうこうしているうちに、二条天皇が体調を崩し、自らの幼い息子に譲位後、ついに崩御してしまうのです。ここに至り、後白河上皇派は復活することになります。皇位についたときもそうでしたが、後白河上皇には、権力が巡ってくる強い運のようなものがあったようです。
その後
さて、この先も後白河上皇の進んでゆく道は長く、語るべき事績も多くあるのですが、長くなってしまいますので今回はここまでとします。
その後の後白河上皇についてごくごく簡単に触れておきますと、権力の階段を上り詰めてゆく平清盛と協力し、時には対立しながら政治の中心にあり続けます。しかも、そこにとどまらず、清盛死後の動乱期にあっても、その存在感を発揮し続けるのです。
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