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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


10月号 2015年10月31日更新

【今月の歴史人物】
新選組のきっかけを作った策士
清河八郎
天保元(1830).10.10〜文久3(1863).4.13


今月号のイラスト清河八郎 ◆清かわ正しく浪士交渉
(C) イラストレーション:結木さくら



10月の主な誕生人物
01日元田永孚/儒学者
02日ガンジー/インド独立指導者
02日ハル/外交官、政治家
03日津田左右吉/歴史学者
04日ミレー/画家
05日リュミエール/発明家
06日マテオ・リッチ/宣教師
06日デデキント/数学者
07日ボーア/物理学者
08日クレッチマー/精神医学者
09日セルバンテス/小説家
09日サン・サーンス/作曲家
10日ヴェルディ/作曲家
10日大山巌/軍人
11日モーリアック/小説家
12日マクドナルド/政治家
13日小林多喜二/小説家
14日陸羯南/ジャーナリスト
14日アイゼンハワー/政治家、軍人
14日マンスフィールド/小説家
15日ニーチェ/哲学者
15日ヴェルギリウス/詩人
15日山本権部衛/政治家、軍人
16日阿部正弘/江戸時代の老中
16日黒田清隆/政治家
17日サン・シモン/思想家
18日ベルグソン/哲学者
19日マンフォード/思想家
20日島津久光/江戸時代の薩摩藩主の父
20日古賀精里/儒学者
20日ランボー/詩人
21日江戸川乱歩/小説家
21日徳川吉宗/江戸幕府八代将軍
21日ノーベル/化学者
22日リスト/ピアニスト、作曲家
22日牧野伸顕/政治家
23日花岡青洲/江戸時代の医師
23日西園寺公望/政治家
24日レーウェンフック/科学者
25日ピカソ/画家
25日シュトラウス(ヨハン)/作曲家
25日ビゼー/作曲家
25日徳富蘆花/小説家
26日モルトケ/軍人
27日齋藤実/政治家、軍人
27日ルーズベルト(セオドア)/政治家
27日パガニーニ/作曲家
28日嘉納治五郎/柔道家、教育者
29日井伊直弼/江戸時代の大老
30日上田敏/詩人、英文学者
31日蒋介石/政治家、軍人
31日ローランサン/画家

清河八郎。歴史ファン、ことに幕末ファンの方には常識的な名前でしょうが、そうではない方にはあまり馴染みのない人物かもしれません。

若年時代
清河八郎が誕生したのは庄内藩(現在の山形県の地域)の清川村。父は醸造業を営む郷士・齋藤豪寿(さいとうひでとし)といいます。清河の本名も斎藤正明といい、清河八郎は長じてのち改名した名です。ただし、複雑になるので、ここでは清河八郎で通します。

清河は非常に聡明な少年だったようです。父や地元の知識人からさまざまな学問を教わり、身に付けてゆきました。このころ、のちに天誅組の総裁となった藤本鉄石という志士に出会ったのは大きい出来事で、大変な影響を受けたと伝わります。天誅組というのは幕末期に結成された尊皇攘夷を掲げる武装集団です。藤本鉄石はこの頃諸国をまわる旅に出ており、その途中で清河と交わることとなったのです。

17歳の時、清河は学問を志し、江戸へと出ます。望みどおりに江戸の学者に学んだのち、幕府の正式な学問施設である昌平坂学問所でも学びました。その後、自らの塾である清河塾を創設しています。

ここまでの経歴を見ると、まさに学者といった趣ですが、清河は文武両道の人でもありました。幕末に名高い北辰一刀流・千葉周作の玄武館にも入門し、免許皆伝にまでなっています。先に述べた清河塾でも、学問だけでなく剣術も教授していました。

またこの時期、清河は国内を回る大旅行も幾度か経験しており、諸国の人物と交流しています。若い清河にとっては非常に大きな経験であったでしょう。

志士として活動する
安政7(1860)年、日本史上有数の大事件が起こります。桜田門外の変です。現役の幕府大老・井伊直弼が暗殺されるというこの事件に清河は大変な衝撃を受けました。これをきっかけに清河は尊皇攘夷、そして倒幕の思想に強く傾いてゆきます。

そしてこの頃、清河の塾に志士たちが集い、一つの同盟を結成しました。これを「虎尾の会」といいます。参加者は十数名。有名な人物としては、のちの江戸開城をめぐる出来事において大きな役割を果たすことになる幕臣・山岡鉄舟がいます。

しかしこの「虎尾の会」の倒幕計画はやがれ幕府に知られ、しかも町で町人を切り殺してしまったという事件も起こし、清河は幕府から追われる立場となってしまいます。

しかし清河はこれでへこたれたりはしません。それどころか、倒幕と尊王攘夷を実現するために仰天の策をひねり出すのです。

それは「倒幕と尊皇攘夷実現のための組織を、当の幕府を使って作り上げる」というものでした。清河は幕府の重職にあった松平春嶽に「急務三策」という提言書を出し、首尾よく幕府の力を使って人材を集めることに成功します。この組織を「浪士組」といいます。

さて、このとき、時の将軍・徳川家茂の上洛が決まっていました。清河はこの浪士組およそ230名を率い、将軍の尖兵として京へと出発しました。そして京へと到着すると、新徳寺という寺において自らの目的を明かします。将軍の警護とは表向きのことであり、浪士組のほんとうの目的は尊皇攘夷にあると。これを受け、所属者の大半はそのまま清河に従いましたが、2〜30名ほどが清河の考えに反対し、袂を分かちます。この中には芹沢鴨、近藤勇、土方歳三などが含まれ、彼らがのちに京で「新選組」を結成します。清河の行動は、あの新選組が結成される一つのきっかけになっていたということです。

暗殺
ともかく清河は約200名もの勢力を自らの下に確保しました。この勢いによって清河は、朝廷に対して建白書を提出、これが受理されます。

しかし、これに驚いた幕府は、ただちに浪士組を江戸へと呼び戻します。清河はこれを受けて江戸に戻りますが、その直後、幕府の刺客によって暗殺されます。文久3(1863)年4月13日、清河八郎満33歳の年のことでした。

 



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