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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


11月号 2015年11月30日更新

【今月の歴史人物】
面白き戦国文書の世界
毛利元就が「三子教訓状」を与える
弘治3(1557).11.25


今月号のイラスト毛利元就 ◆三矢の教えで毛利の繁栄もっとなり
(C) イラストレーション:結木さくら



11月の主な誕生人物
01日萩原朔太郎/詩人
02日マリー・アントワネット/フランス王妃
02日後醍醐天皇/第96代天皇
03日武田信玄/戦国時代の大名
03日田中正造/政治家
04日隠元隆(埼)/江戸時代の僧
04日泉鏡花/小説家
04日有馬新七/志士
05日市村羽左衛門(15代)/歌舞伎役者
05日サバティエ/化学者
06日鮎川義介/実業家
07日キュリー(マリー)/物理学者
07日ヴィリエ・ド・リラダン/小説家
08日ロールシャッハ/精神医学者
09日野口英世/細菌学者
10日ルター/宗教改革者
10日シラー/詩人
11日乃木希典/軍人
11日川上操六/軍人
12日孫文/政治家、革命家
12日シャルル/物理学者
12日ブッセ/詩人
13日アウグスティヌス/神学者
13日スティーブンソン/小説家
13日岸信介/政治家
14日見原益軒/江戸時代の儒者
14日ネルー/政治家
15日坂本竜馬/幕末の志士
15日ハーシェル/天文学者
15日芦田均/政治家
16日北村透谷/詩人、評論家
16日ダランベール/政治家
17日ルイ十八世/フランス国王
18日ダ・ゲール/画家、写真家
19日ディルタイ/哲学者
19日毛沢東/政治家
20日ラゲルレーフ/小説家
20日尾崎行雄/政治家
20日ハッブル/天文学者
21日ヴォルテール/哲学者
22日ド・ゴール/政治家、軍人
23日ファリャ/作曲家
24日バーネット/小説家
24日スピノザ/哲学者
24日ロートレック/画家
25日カーネギー/実業家
25日安藤信正/老中
26日アームストロング/技術者、実業家
27日セルシウス/天文学者、物理学者
27日松下幸之助/実業家
28日桂太郎/政治家、軍人
28日寺田寅彦/作家、物理学者
29日オルコット/小説家
29日フレミング/技術者
30日マーク・トゥエイン/小説家
30日チャーチル/政治家

三矢の教え、といえば誰もが聞いたことのある逸話ではないでしょうか。戦国武将・毛利元就が3人の息子を病床に呼び、束ねた三本の矢に例えて兄弟の結束を促した…という話です。
今回はこの文書にちなみ、戦国時代の面白い文書をいくつかご紹介しましょう。

●三子教訓状
まずは冒頭でも触れた、毛利元就の「三子教訓状」から。
毛利元就といえば中国地方の英雄とも言える戦国大名。ごく小さな領主から一代で中国地方のほとんどを支配するまでに勢力を拡大しました。そんな元就は、息子のうち一人に本家を継がせ、二人を吉川家、小早川家という別の家に養子にやりました。この二家が本家の毛利を支える体制を「毛利両川体制」といいます。三子教訓状は、この三人の息子にあてた書状なのです。
内容はというと「毛利の苗字を守れ」「隆景・元春(養子に行った二人)は毛利の本家をよく支えるように」「隆元(毛利を継いだ長男)は隆景・元春と意見が合わなくても我慢せよ、隆景・元春は隆元の言うことに従え」…といった調子です。実にくどくどと似たようなことを繰り返して書き連ねているのですが、毛利両川体制は毛利の生命線とも言えるもので、単なる親から子への教訓を超えた重みがあったのでしょう。周到な元就らしい書状という感じがします。

●豊臣秀吉の手紙
織田信長のあとを継いで天下人となった豊臣秀吉は非常に「筆まめ」な人物でもありました。たくさんの手紙を残していて、その中には政治的に重要なものもあれば、プライベートなものもあります。中でも小田原攻めの際、正室の北政所(おね)に送った書状は有名なのではないでしょうか。
小田原攻め。最後まで秀吉に従おうとしなかった関東の大勢力・北条氏を征伐するための遠征戦です。この戦いにおいて秀吉は、北条の勢力が篭城する小田原城を囲み、積極的な攻撃を仕掛けることもなく、相手の弱るのを待ちました。
この包囲の最中、秀吉は陣中というのに茶会を開いたり、歌や舞を行わせたりと、北条勢に余裕を見せ付けます。また秀吉は部下の諸将に妻を呼び寄せる許可も出し、秀吉自身も側室の淀殿(茶々)を呼び寄せることにしました。そして、その手配を北政所に頼むのですが、その時の手紙がちょっとしたもの。長い滞陣につき「おまえの次に好きな」茶々を呼び寄せたいがその手配をしてくれ…などと書いているのです。この時代、側室を持つのは当たり前。そして、それを呼び寄せるならば正室にその手配を頼むのも当然のことではありましたが…人の気持ちというのはいつの世も変わらぬもののようです。

●織田信長の手紙
もう一つ、秀吉がらみの書状を一通。あの織田信長が出した書状です。と、いっても秀吉に宛てたものではなく、その妻・おねに宛てたもの。秀吉が信長配下としていよいよ頭角をあらわしてきた頃、おねは信長のいる安土城を訪問し、信長と会見しました。その際、秀吉の女癖の悪さを訴えたらしく、それを受けての信長の返事です。
内容は「この度は訪ねてくれて嬉しく、土産もありがとう。そのほうは前にあったときより大変美しくなった。藤吉郎(秀吉)がいろいろ不満を申すとのことだが、言語道断だ。あの剥げ鼠(秀吉)には、どこを探してもそのほうのような女性は見つかるまい。これからは明るく振舞い、やきもちなど焼かずに世話をしてやりなさい」といった、おねを気遣った優しいものです。しかも極め付きはその末尾。「この手紙は秀吉に見せなさい」とあり、しかも信長公式文書を示す「天下布武」の朱印まで押してあるのです。この手紙をおねに渡されて読み終わった秀吉、さて、どのような表情をしたか。
なんにしても、私たちの抱く信長のイメージが一変するような書状ではありませんか。

●「直江状」
関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえるのが「会津征伐」といわれる戦いです。この会津征伐を招いたともされる有名な書状「直江状」を最後にご紹介しましょう。
「直江状」は上杉景勝の重臣であった直江兼続が徳川家康に宛てたとされる書状です。当時は秀吉の死後で、家康が豊臣政権の中で影響力を大きく伸ばしていた時期。上杉氏は家康との折り合いが悪く、しかも軍備の増強も始めていました。これが家康にも報告され、家康は上杉景勝に文書の提出と上洛しての説明を命じます。しかし兼続はこれに対し、非常に挑発的な書状を返して拒絶します。これが「直江状」と言われるもので「景勝に謀反の意は全くない」「文書など出さなくとも反意がないことは申し上げられる」「上方の武士は茶器など人たらしの道具をお持ちだが、田舎侍は武具を整えるのが国柄」「讒言する者を調べないままに上杉に反意ありなどと言われては不本意」などという内容で、痛烈です。とはいえ、今伝わっている「直江状」は江戸時代の写本であり、原本は見つかっていません。そのため「直江状」は後世の偽書ともされるのですが、細かな内容はともかく、そのような書状があり、それを見て家康が激怒したことは実際にあったことのようです。
さて、このようなことがあった結果、家康は会津征伐を決意し、実際に出陣します。しかし、その途上で石田三成が挙兵、家康は進軍を中止したため、家康勢と上杉勢が実際に交戦することはありませんでした。そして、この後に関ヶ原の戦いの本戦が行われることになるのです。

 



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