以前、日露戦争から100年ということで大型のドラマが数年にわたってテレビ放送されたことがありました。その影響か、かつてよりは日露戦争というものがよく知られるようになったのではないでしょうか。今回はその日露戦争中でも最大の激戦と言われる「旅順攻略戦」についてご紹介します。
日露戦争の中の「旅順」
旅順というのはどこにあるかというと、当時の清国、北東にある「遼東半島」の先っぽにある軍港であり、それを守る要塞です。
「遼東半島」という名には記憶があるかもしれません。そう、日清戦争で日本が清から割譲され、独仏露の「三国干渉」があったことですぐ清に返還することとなった半島です。それほどの要衝ということですが、その出来事からしばらく経った日露戦争の頃には、旅順はロシアの租借地となって要塞化されていました。
そもそも日露戦争とは、きわめて大づかみに言うと、ロシアの南下政策とそれに対する日本の反発とがぶつかり合って起こった戦争です。ですから、戦うにあたっては、ロシアは南下してきます。一方、日本は海を越え、朝鮮半島を通って北上します。両国はそこで激突するということになります。つまり、主戦場はロシアでも日本でもなく、朝鮮半島と清国でした。
そこで日本にとっての大問題は「日本海」です。戦場に向かうにも、その後補給をするためにも、日本海を渡ることが当然必要ですが、そのためには日本海を自由に航行できる「制海権」が必要です。この制海権を得るためには、旅順港に集結しているロシアの「旅順艦隊」を撃退しなければなりませんでした。さらに、戦争が始まってからは、ロシアのもう一つの大艦隊「バルチック艦隊」が、ぐるりと地球を半周して戦場に向かっていました。このバルチック艦隊と旅順艦隊が合流してしまえば、日本が日本海の制海権を得ることは絶望となります。バルチック艦隊がやってくるまでに、旅順港を攻略し、旅順艦隊を撃滅する。これが、当時の日本海軍にとっての至上命題でした。
と、ここまで海軍にとっての旅順の価値についての話です。では陸軍にとって、旅順はどういう拠点だったのでしょう。
むろん、陸軍にも旅順要塞は無価値ではありませんでした。陸軍がこの要塞を放ったまま進軍すれば、そこにある大兵力が後方で自由に活動することになってしまい、ひじょうに危険でした。要塞攻略は、陸軍にとっても必要な作戦でした。
こういう背景から戦われたのが「旅順攻略戦」だったのです。
旅順要塞の激戦
海軍と陸軍の折り合いがよくないのはどの国、どの時代においても変わりがないようで、当時の日本軍もそうでした。当時の海軍は陸軍との連携は考えず、単独での旅順港攻略、さらに旅順艦隊の撃滅をめざします。日露戦争が始まったのは1904年2月のことでしたが、海軍の旅順攻略は開戦直後から始まっています。日本海軍の連合艦隊は、ロシア旅順艦隊との直接対決も行い、損害を与えました。しかし撃滅には至らず、旅順艦隊は旅順港に逃げ込みました。その後も連合艦隊は旅順に対して激しい攻撃を加え続けますが、結局、単独での艦隊撃滅は難しいと判断し、陸軍と協力しての旅順攻略を企図します。
ただし、この時点で連合艦隊が旅順艦隊に与えた損害は相当に大きく、ほとんどの艦船が戦闘不能の状態に陥っており、しかも旅順港の設備では修理不能の状態でした。当の日本軍がそのことを分かっていなかったのですが、実は海軍の目的はほぼ達成されていたのです。
ともかく、陸軍による本格的な旅順攻略戦もこうしてはじまりました。これが8月のことです。これを担当したのが日本陸軍の第3軍であり、その指揮官が、かの有名な乃木希典大将でした。
しかし、陸からの旅順攻略は困難を極めました。乃木は旅順要塞に対し、度重なる総攻撃を行います。しかしこの総攻撃で決定的な戦果は出せず、第一回の総攻撃などは、死傷者およそ15000人という大損害を出すほどでした。
ここで日本軍は方針を転換し、旅順港を望める「203高地」という丘を攻撃の目標とします。この丘は旅順港を望める位置にあり、そこから長距離射撃をおこなって、旅順艦隊を壊滅させようという意図でした。これに対しロシア軍は203高地を徹底的に守る方針を取り、203高地は旅順攻略戦における最激戦の地となります。
結果から言いますと、203高地は攻撃開始からおよそ1週間で陥落しました。日本軍・ロシア軍それぞれが、死傷者およそ17000名を出すという、寒気がするほどの凄まじい戦いでした。
この203高地から日本軍は旅順艦隊を砲撃します。さらには要塞本体への攻撃も加速し、兵力を損耗していたロシア側は降伏を決意、翌年1月2日に開城となりました。
進む分析
旅順攻略戦というのは、かつての日本人なら誰もが知る戦いでした。それが近年、日露戦争に対する注目が高まり、それと同時に旅順攻略戦も再び知られるようになりました。しかし、かつて知られていた経過とは異なる部分が多いのではないかという説が、今は多く出されています。
例えば、上では触れませんでしたが、乃木が要塞を攻めあぐねている時期、参謀総長であった児玉源太郎がやってきて、半ば指揮権を奪う形で203高地攻撃を決断、結果、数日で203高地は落ち、旅順艦隊を砲撃撃滅、要塞そのものもすぐに陥落した...という流れがあったと従来言われてきました。しかし、これは正確ではないらしく、児玉の来る前から203高地の攻撃は決定されており、しかも先述のとおり、旅順艦隊はそれ以前から海戦によって戦闘能力をうしなっていたわけですから、高地からの砲撃もそれほど重大な意味を持たなかったともいうのです。
また、旅順要塞の攻略に大変な損害を出し、時間も費やした乃木の手腕にも疑問が持たれていました。しかしこれにも反論の説が出ています。旅順要塞は、日本軍が初めて相対した近代的要塞であり、当時の最新兵器の機関砲が配備されていました。さらには、バルチック艦隊がやってくるまでに要塞を落とさねばならないという時間制限までついていたわけですから、困難な戦いになるのは当然だったというのです。
日露戦争だけではなく、近代史上でもまれな大激戦となった旅順攻略戦。かつての扱われ方とは異なる、新しい見方、新しい研究が今後も現れてきそうです。
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