近代に入るまで、アフリカはヨーロッパ世界にとって未知の大陸でした。「暗黒大陸」という呼び方もあったほどです。そんなアフリカに踏み入り、ヨーロッパに対して地理的な知識を多くもたらした人物がリビングストンです。今月はこのリビングストンをご紹介します。
海外布教の道へ
リビングストンは、スコットランドのサウスラナクシャーという地域で、1813年の3月19日に生まれました。日本でいうと文化10年。江戸時代の後期で、町人文化が花開いた、いわゆる化政文化の時期でした。将軍は50年もの長期在任で知られる、11代徳川家斉でした。
さて、話を元に戻します。リビングストンの生まれた家は裕福ではなく、かれも少年期から稼ぎ手として工場で働いていました。
しかしリビングストンは学ぶ意欲も旺盛でした。仕事の合間に学んで力をつけ、グラスゴー大学へと入学します。大学では医学と神学を主に学びました。25歳の年にはロンドンの伝道協会に入り、海外布教の道を歩み出します。
リビングストンははじめ中国での布教を希望していたようですが、中国ではアヘン戦争が勃発しようとしていた時期であり、その希望は叶いませんでした。かわりにリビングストンが見出した布教先が、当時暗黒大陸とも言われていた、アフリカでの布教です。
さて、ここからリビングストンの探検人生がはじまるのですが、ここでちょっと引っかかるのが言葉づかいの問題です。探検家の生涯を語るのによく「発見」「見つけた」という言葉が用いられます。「○○という湖を発見した」「○○という島を見つけた」といった具合にです。
しかし、これはよく考えるとおかしなことです。「発見」といったって、単にそこに初めて行った人々にとって「発見」なだけで、現地人にはありふれたもの。失礼な言い方といえば失礼です。
しかしながら、ここでそれらの語を封印してしまうと、ひじょうに話が進めづらくなるのも事実ですから、上のようなことを頭に置きつつ、今回は「発見」の語を用いていくことにいたします。
第一回アフリカ探検
リビングストンがはじめてアフリカの地に降り立ったのは28歳の年のことです。当時英領であった南アフリカに着くと、そこからクルマンという、現在のボツワナ共和国にある町に移動し、生活を始めました。
リビングストンにとっては、このクルマンに定着し、そこで布教活動をすすめていくという選択もありました。しかしかれはそうはせず、さらに奥地へと進み、広く布教する道を選びます。
と、これがリビングストンの第一回アフリカ探検ということになるのですが、この探検はひじょうにさまざまなことがあった旅でした。ライオンに襲われて左手に重傷を負い、生涯左手が不自由になるという出来事もありました。また、現地にいた先輩の娘と結婚し、子供も儲けたのもこの探検においてでした。一つ、ひじょうに有名な実績が、アフリカの奥地にある大滝の発見です。現地では「モシ・オー・トゥニャ」というような発音で呼ばれていたこの滝を、リビングストンは当時のイギリス女王の名にちなんで、「ヴィクトリアの滝」と名づけました。
そして、最も大きかったのが、現地において、当時さかんに行われていた、奴隷売買の実態に直接触れたことです。奴隷たちの過酷な状況を目の当たりにしたリビングストンは、奴隷売買よりも利益の上がる商売を生み出そうと、アフリカの地に貿易路を開拓しようと考えます。布教活動と共に、この貿易路確立の目標が、リビングストンの探検活動の大きな動機となったのです。
これらの成果や課題を得て、リビングストンの第一回アフリカ探検は終わります。
第二回の探検
第二回の探検にリビングストンが向かったのは48歳の年のことです。前回の探検の際には、定住しての布教活動を行わなかったと指摘され、伝道協会は除名になってしまっていたものの、その多大な実績は評価されており、政府にバックアップされての探検旅行でした。ですから、形としては、この探検の目的はまさに「探検」そのものだったということになります。
この探検には家族も同行したのですが、リビングストンの妻が病のため、途中で命を落としています。しかし、その悲しみの中、リビングストンはさまざまな地理的発見を携え、この探検を終えます。
帰国するとリビングストンは執筆活動にかかり、アフリカ探検の成果と、奴隷貿易の実態も詳細に記します。この著書は当時のイギリス人を驚かせ、同時に、奴隷貿易で稼いでいる商人たちの恨みを買うことにもなりました。
最後の探検
52歳の年、リビングストンは最後となる第三回のアフリカ探検に出発します。この探検は、ナイル川など、アフリカの大河の水源を探るという目的がありましたが、探検は困難を極めました。かれの探検隊は当初数十人という編成でしたが、次々と脱落し、最後には10人程度しか残りませんでした。その上、かれを恨んでいた奴隷商人たちの妨害もあったといいます。このような状況下、リビングストンは体調も崩してしまい、静養生活を余儀なくされます。
一方、イギリス本国ではリビングストンが消息を絶ったとされ、死亡説まで流れていました。そんな彼を捜索に向かったのが、これも有名な探険家であるスタンリーでした。スタンリーがリビングストンを発見したとき、リビングストンはひじょうに弱っていましたが、帰国の意思はなく、水源を突き止める探検を続けようとしました。スタンリーはやむを得ずかれを置いてイギリスへと帰り、のちに人員と物資をリビングストンの探検隊に送りました。それによってリビングストンは探検を続行したものの、まもなく病によってこの世を去るのです。1872年5月1日、60歳の年のことです。
リビングストンの遺体は防腐処理を施され、かれの遺した資料類と共に、イギリスへと運ばれました。そうしてウェストミンスター寺院に葬られました。遺体の確認は、その左腕に残された大怪我の跡によったといいます。
|