今月ご紹介するのは詩人・ボードレール。19世紀の欧米における最高の詩人という評価もあるほどの大詩人です。
優等生から放蕩者へ
ボードレールが誕生したのは1821年4月9日。生地はフランス革命から30年と少しを経たパリです。父は聖職者でしたが、ボードレールの生まれた時点ですでに60代の半ばという高齢で、かれが6歳の年に亡くなっています。その後、まだ若かった母は陸軍の軍人と再婚しますが、このことは幼い彼の心に大きな影響を残したと言われます。
少年時代のボードレールは優秀でした。レベルの高い高校に通い、成績もよく、エリート街道を進んでいると言っていいほどでした。そして大学にも合格し、法律学科に進むのですが、どうやらここで道を踏み外したようで、自由気ままに遊びほうけるようになってしまいます。
家族たちはこれを心配し、ボードレールが20歳の年、フランスと土地の友人から離れさせるため、ほとんど強制的に長い航海旅行に出されます。それはヨーロッパからインドにいたる、文字通りの大旅行ではあったのですが、アフリカ大陸南端の喜望峰を回ってモーリシャスに着いたころ、ボードレールはこの旅から逃げ出し、帰国の船に飛び乗ってフランスへと舞い戻っています。しかし、中断したとはいえ、この旅はボードレールの後の詩作を支える貴重な体験となったようです。そもそも、この旅の途中に詩を作ってもいます。
文筆の道へ
パリに戻ったボードレールは、成人になっていたため、相続した実父の遺産を自由に使う権利を得ます。当然と言っていいのかどうか、ともかくかれはそれを使って、放蕩します。この時期、無名の女優と恋愛関係になり、多くの詩を創作しています。
ボードレールの放蕩はかなり酷かったらしく、およそ2年ほどのあいだに、相続した遺産を半分ほども浪費したといいます。家族は当然これを問題視し、ボードレールから財産を取り上げました。それは法的なやり方で、つまり、残った財産を弁護士の手に託し、毎月定額をボードレールに渡すような形に変えたのです。以後、ボードレールは放蕩どころか、貧乏と言っていいほどの経済状態におちいります。
さて、この頃からボードレールは文筆の道で活動を始めます。しかし当初は詩人としてではなく、美術批評家、文芸批評家としてです。批評家としてのボードレールはなかなかのもので、サロン(フランスの官展)の批評で名を上げました。文芸の分野では、エドガー・アラン・ポーの翻訳や評論に力を入れています。このポーには、ボードレール自身も大変大きな影響を受けています。
そうした中、詩作もおこなっており、やがてそれらを発表もします。
『悪の華』の失敗
ボードレールがはじめて詩を発表したのは34歳の年のことでした。『悪の華』と銘打ち、18の詩篇が雑誌に一挙掲載されたのです。さらにその2年後には最初にして生前最後の詩集『悪の華』を出版します。
しかし『悪の華』の結果は散々でした。耽美で、官能的で、退廃的なその内容は、当時の世の中には受け入れられないものだったのです。詩集を高く評価する者もいましたが、概ね評価は低く、しかも詩集のうちの6篇は風俗を乱すとして、裁判の末、罰金かつ詩集からの削除を命じられました。その後、問題の詩を削除したうえ、新たに35篇の詩を加えた第二版も出版されましたが、やはりうまくいかず、その後、詩集の出版社は倒産しています。
それからのボードレールの人生は暗いものでした。詩を発表し、評論も続けていますが、生活は貧窮の度を増していきます。フランスのアカデミー会員になろうとしますが失敗し、体調も崩し(若い頃に感染した梅毒の影響と言われています)、一発逆転を狙って出発したベルギーへの講演旅行も失敗しました。そして45歳の年、ボードレールの病状はついにどうしようもなく悪化し、ベルギーからパリの病院へと移って、そのまま死去します。1867年8月31日のことです。
死後
かれの葬儀は寂しいものだったと伝わります。詩人としてのかれの業績はほとんど評価されておらず、死後にようやく未刊行の詩をまとめた詩集が発表されただけでした。しかしその後、かれの詩に対する評価は徐々に上がっていき、やがて象徴主義詩の創始者、近代詩の父とまで言われるようになり、欧米世界における19世紀最大の詩人のひとりとしての評価が定着するのです。
『悪の華』において削除された6篇の詩。その処分が公に解かれたのは70年以上後の1949年のことでした。
|