1843年6月30日生まれの歴史人物・サトウ。幕末から明治にかけて活躍したイギリス人外交官です。今月はこのサトウにちなみ、幕末から明治にかけて日本で活躍した多くの外国人の中から何人かをご紹介します。
時代の節目に活躍した外国人たち
幕末という時代には、いわゆる鎖国体制を終わらせるか否かのせめぎ合いという側面があります。つまり幕末は、日本が国際情勢の荒波にさらされ、大きく国を開くかどうかを決断を迫られたときでもあったのです。
と、なると、そこには必然的に、外国と外国人が絡んできます。その外国人とは外交官であったり、あるいは海外の先進技術を取り入れるために、幕府や政府などが招聘した外国人であったりしました。招かれて日本で働いた外国人のことは「お雇い外国人」とも呼ばれます。
アーネスト・サトウ
明治維新が近づく文久2(1862)年、当時のイギリス公使館の通訳生として、サトウは来日しています。なお、サトウとはいかにも日本人のような姓ですが、特に日本人とはかかわりありません。
当初、サトウの日本語能力は低かったようですが、徐々に実力をつけ、英国公使に付き従い、主に通訳としてさまざまな人物と面会しています。一例をあげると、伊藤博文、大久保利通、岩倉具視、桂小五郎など...さらには将軍・徳川慶喜や明治天皇とも会っています。
サトウは明治維新後も日本で勤務し、日本人の妻とのあいだに子どもも儲けました。明治の半ばには駐日公使にまでなっています。
ボアソナード
明治6(1873)年に来日したフランスの法学者で、日本近代法の父ともいわれる人物です。
当時、近代化を目指していた日本にとって、法律の整備は急務。また、幕末に結んだ不平等条約の撤廃のためにも、日本の近代化はかならず必要なことでした。そんな情勢下にあって、法律の専門家として招聘されたのがボアソナードでした。
ボアソナードはまず刑法を整備し、続いて民法の整備にとりかかりました。しかしながら、施行も直前という時期になって、議論が不十分であるという批判が巻き起こり(民法典論争)、施行は延期、新たな民法が編纂されるにいたります。しかしながら、後に施行された民法もボアソナードの民法の影響を強く受けていました。
キヨソネ
イタリア人の画家で、1875(明治8)年に来日しました。印刷技術の指導のために招かれたもので、近代初期の紙幣・切手の印刷に大きな貢献をしています。このほか、当時の有名人の肖像画を数多く描いたことでよく知られます。例えば、西郷隆盛の肖像画はひじょうによく知られており、誰もが一度は目にした事のある作品と思われます。ただ、キヨソネは西郷隆盛に実際に会ったことはなく、この肖像画は親類の顔や、証言をもとに想像で描いたものと言われています。
ビゴー
フランスの新進画家だったビゴーが来日したのは1882(明治15)年のこと。欧州におけるジャポニズム(日本趣味)に触れ、日本への興味を強く持ち、来日したのでした。
来日したビゴーははじめ、軍の絵画講師として働き、その後報道画を描くようになります。やがて滞日フランス人向けの風刺雑誌を創刊するなどしました。ビゴーの業績でなんと言っても有名なのはこの風刺画です。社会科の教科書や資料集には、ビゴーが描いた風刺画が必ずと言っていいほど掲載されています。日本人なら誰もが一度は目にしたことがあるはずです。
ヘボン
アメリカ出身の医師で宣教師です。幕末期に来日し、横浜で療養所を開業しました。しかしヘボンの業績で最もよく知られるのは、医業ではなく、日本最初の和英辞典『和英語林集成』を編纂したことでしょう。この辞典における日本語の表記がやがて「ヘボン式ローマ字」として広く普及してゆくことになります。また、現在の明治学院大学などを創設するなど、教育者としても日本に大きな足跡を残しました。
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