探検家といえばまっさきに名前の挙がる人物が、今月ご紹介するアムンゼンです。最近はそうでもないようですが、少し前までは、伝記や偉人伝でもさかんに取り上げられていました。
探険家の道へ
アムンゼンの出身は、ノルウェーのボルゲという町です。1872年の7月16日に海運業の家の子として誕生しました。日本でいうと、明治維新が成った直後くらいの時期です。
アムンゼンは幼い頃から探検の物語が好きで、少年期にはすでに探検家を志していました。この頃、窓を開け放して眠り身体を鍛えていた、などというエピソードも伝わっています。
しかし人生というのはそううまくいかないもので、母親はアムンゼンに医師になることを希望していました。そのため、アムンゼンは大学で医学を学んでいます。しかし在学中にその母親が亡くなり、アムンゼンはかつての夢をかなえるために大学をやめ、船乗りとなるのです。
若き日の探検
25歳の年、アムンゼンはベルギーの探検隊に航海士として参加しました。このときの目的は南極探検でしたが、船が流氷に囲まれ、南極海で立ち往生してしまいます。しかしながらこの経験は、長い間極地で生活し、寒さのために病気になった乗組員に対応したりと、極地探険家として大変貴重なものとなりました。
続いての大きな探検は、北西航路の横断です。北西航路というのは、簡単に言うと大西洋と太平洋をつなぐ航路で、カナダ北方の諸島を通り抜けます。欧州とアジアを結ぶ航路としては最短と考えられてきたため、古くからさまざまな探検家がこの航路の征服に挑みました。しかし流氷や氷山の多い過酷な航路でもあり、誰も成功していなかったのです。
アムンゼンがこの北西航路に挑んだのは31歳の年のことでした。アムンゼンはかなり小型の船で探検に出発し、数度の越冬を経て、北西航路征服を成し遂げます。同時に、北極地方の磁極の調査も行い、大きな成果もあげました。
南極点の死闘
アムンゼンの業績で最も有名なのが南極点への到達です。成し遂げたのはアムンゼン39歳の年のことでした。
はじめアムンゼンは北極点到達を目指していたようですが、このころちょうど、別の探検家が北極点に辿り着いたという報があり、南極点をめざすことに変更したのです。
この南極点への探検で特によく知られるのが、イギリスの軍人探検家・スコットの隊との先着争いです。アムンゼンの目標変更(北極点から南極点へ)が突然だったこともあり、この争いは熾烈を極めました。結局先に南極点に到達したのはのはアムンゼンで、スコットに先んじることわずかに1か月の勝利でした。
アムンゼンの勝利の要因はいくつかあったと言われます。まず、アムンゼンが選んだのは未調査の短いルート、スコットが選んだのは調査済みの長いルートで、これがアムンゼンにとって奏功しました。さらに、アムンゼンは移動手段として、寒さに強く、丈夫な犬を選択しました。つまり、犬ぞりによる移動です。一方、スコットは馬と雪上車を選択しましたが、馬は寒さに倒れ、雪上車は故障し、その探検行をひじょうに困難なものとしたのです。
後れを取ったスコット隊は失意の中に沈み、しかも隊長のスコットは、帰路、荒天にとらわれ、帰還しきれずに現地で亡くなっています。
探検に死す
南極点到達という、当時の探検家にとって最高の栄誉を勝ち取ったアムンゼンは、飛行船によってではあるものの北極点にも到達しました。55歳の年には来日もし、各地で公演をおこなっています。
その死は来日の翌年です。北極を飛行機で探検しているさなか、遭難したイタリアの探検隊を探しに向かい、そのまま消息不明となりました。数ヵ月後、アムンゼン機の破片が海上で発見されており、アムンゼンは飛行機で墜落して亡くなったことがほぼ確定的と考えられています。
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