今月ご紹介するのは、イギリスの科学者・ドルトンです。一般的な知名度はほどほどといったところですが、その名を冠する物理法則も残る大科学者の一人です。
少年時代から教師
ドルトンが生まれたのは1766年9月6日のこと。生地は現在のイギリス中部に位置するカンバーランド州です。1766年とは、日本で言えば江戸時代の中ごろ、十代徳川家治の治世で、いわゆる田沼時代の入り口あたりの時期です。
ドルトン家の家業は織物で、暮らし向きはひじょうに貧しいものでした。ドルトンは地元の小学校で学んだのですが、大変優秀な少年だったらしく、小学校の教師が引退すると、そのあとを引き継いで教師になるほどでした。しかもこのとき、ドルトンはわずか12歳ほどだったというのですから大変なものです。
その後、ドルトンは講師、教師の職を続けながら独学で学び続けます。ドルトンはイギリスでは珍しいクエーカー教徒(キリスト教から派生した新興宗教)だったので、当時、大学などではなかなか学ぶことが難しい環境にあったのです。しかし、そんな中でも、ドルトンはさまざまなすばらしい発見をおこなってゆくのです。
色覚異常の研究
ドルトンの研究において有名なものの一つが、色覚異常にかんする研究でしょう。論文を発表したのは20代の終わりのころで、この分野でのさきがけとなった研究です。
実はドルトンは、自身が色覚に異常を抱えていました。色は見えていたものの、色の細かな見分けがつかないタイプの色覚異常だったようです。ドルトンはこの異常について細かく記録し、その原因等について分析しました。それらは、今日の学問から見るとまったく間違っていた部分もありましたが、遺伝的要素や症状の特徴など、合っている部分も多々あったのです。
ドルトンの原子説
ドルトンの業績において最もよく知られるのが原子についての研究、いわゆる原子説です。今日、ドルトンは化学の分野での功績がよく知られていますが、そもそも若い頃は気象についての研究をおこなっていました。この気象の研究の中から、大気、気体のふるまいに着目し、さらにはそれらが原子からなりたっているという説にたどりついたのです。原子説というのは太古のギリシア科学の時代から存在した説ではありましたが、それはいかにも思弁的・形而上的なもので、今日的な科学とは相容れない部分がありました。ドルトンの原子説は、今日の視点から見ると、いかにも未熟な部分ばかりで、証拠にも乏しい内容ではありました。しかし、同じ元素を構成する原子は同じ性質を持つこと、原子が生まれたり消えたりすることはないといったことを唱えており、それまでの原子説とは一線を画す考え方をもっていました。ドルトンの原子説は、のちの原子の研究に、近代的な方向付けをする力を持った、大変進歩的で重要な説だったのです。これらの学説を発表したのは、ドルトンが30代後半から40代にかけてでした。
晩年
ドルトンはその後もさまざまな研究をおこないました。しかし、学者の王道を進んでこなかった市井の研究者だったためか、学説を発表するにもなかなか苦労したようです。とはいえ、原子説を発表するころには名の知れた学者になっており、60歳の年にはイギリス王立協会からロイヤルメダルを受賞し、晩年には国から年金も受け取ることができました。
70歳を過ぎたころ、ドルトンは脳梗塞を発症しました。言語機能に後遺症が残ったものの研究を続け、78歳の年にとうとう亡くなりました。生涯結婚はせず、研究に人生を捧げました。
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