つい先日もノーベル賞の受賞者が発表され、世間に話題を振りまきました。今月ご紹介するのは、そのノーベル賞を女性で初めて、しかも複数回受賞した「キュリー夫人」ことマリー・キュリーです。
苦学の若年時代
1867年の11月7日、マリー・キュリーはポーランドの下級貴族・スクォドフスカ家に生まれました。キュリーというのは結婚後の姓、マリーというのもフランス語風の読み方なのですが、ここでは「マリー」の名で通します。
マリーは5人きょうだいの末っ子で、大変聡明な女の子だったと伝わりますが、その境遇は決して幸福とはいえないものでした。というのも、当時のポーランドはロシアの支配下にあり、ポーランド人の行動に制限をかけていたからです。父母も祖父も、学者や教育者という家庭でしたが、自由な活動はできず、一家はたいへん貧しい暮らし向きでした。しかも母は病によってマリーが11歳の年には亡くなっています。
そのような苦難もあったものの、彼女は学校を優秀な成績で卒業しました。しかし当時にあっては、いくら優秀でも女性が高等教育を受けることはひじょうに難しく、マリーも地元で家庭教師などをしながら過ごしていました。
転機が訪れたのは24歳の年で、マリーはパリに住んでいた姉の誘いをきっかけに、フランスのパリへと移り住むことを決意しました。当時のパリ大学は当時でも女性が高等教育を受けられた大学で、マリーは早速パリ大学で学び始めます。このころ、彼女は「マリー」というフランス風の名前を使い始めたのです。
さて、金銭的な不自由もあり、たいへん苦労しながらも、マリーは勉学に没頭しました。そうして26歳の年、マリーはついに学士の資格を得ています。
伴侶ピエール、そしてノーベル賞
マリーはその後も研究生活を送りますが、そんな中、知人の紹介である人物と知り合います。それがピエール・キュリーでした。ピエールは当時35歳で、研究者としては名を知られていませんでしたが、大変優秀な男性でした。二人はじょじょに恋に落ち、ピエールの強い求婚の末、結婚します。マリーが28歳の年のことです。このときが「キュリー夫人」誕生の時というわけです。
二人は夫婦として、そして共同研究者として歩み始めます。二人が扱い始めたテーマは、放射性物質の研究でした。二人はその特性について研究を進め、ポロニウム、ラジウムという新元素も発見しました。二人の研究はやがて学界で認められていきます。そして、ついに二人は、放射線物質の特性研究について先鞭をつけたフランスの学者、ベクレルとともにノーベル賞を共同受賞することとなったのです。むろん、女性では初の受賞でした。マリー36歳の年のことです。
ピエールの死
そんなマリーを大きな不幸が襲います。マリー39歳の年、夫のピエールが交通事故によって急死するのです。人生の伴侶と、心強い共同研究者を一挙に失うことになったマリーは悲しみに沈みました。しかし、マリーは亡くなった夫の業績を継ぐことを決意しました。夫の勤めていたパリ大学の教授職や研究室を受け継ぎ、彼女は研究を続けます。そうしてマリーは44歳の年、2度目のノーベル賞を受賞するのです。2度ノーベル賞を受賞したのは、彼女が史上初でした。
マリーの人生
ここで横道にそれますが、実は彼女は、研究業績以外のエピソードもひじょうに多く持っています。ここで詳しくは触れませんが、若い頃の恋、女性であるがゆえにアカデミーに選出されなかったこと、2度目のノーベル賞受賞の前後に起こった不倫スキャンダル、娘夫妻もマリーの研究室においてノーベル賞を受賞したことなど…研究者の人生はその業績に目が奪われがちですが、それのみではないのです。彼女もまた、人として濃密な人生を生きていました。
さて、その後も彼女は研究活動を続けました。しかしながら、長年放射性物質の研究を続けていたため、彼女の身体はそれに蝕まれていました。当時は放射能の人体に対する害がよく分かっておらず、彼女もそれを認めていなかったのですが、ついに彼女は67歳の年、被爆が原因と考えられる再生不良性貧血によって亡くなりました。
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