今月は、中国・宋(北宋)の時代の大詩人、蘇軾が12月に生まれたことにちなみ、中国の名だたる詩人を幾人かご紹介しましょう。
漢詩とは
そもそも漢詩は、古くからあった中国の詩の伝統を受け、漢の時代にその形式を整えた文学です。五言詩、七言詩(一句が五文字、七文字)、絶句、律詩(四句、八句からなる)といった種類があるのは、学校でも習ったことと思います。漢詩は唐の時代にその全盛期を迎え、多くの名詩人を生み出しますが、その後の時代にもさまざまな詩人が生まれています。
なお、漢詩は日本にも伝わりました。漢文を日本語のように読む「訓読」によって、日本人に広く親しまれている有名漢詩は枚挙に暇がありませんし、そもそも古来から日本人も多くの漢詩を作っています。
杜甫
先天元(712)〜大暦5(770)
「詩聖」とも称される唐代の詩人です。名家の出ではあったものの、経済的には不遇でした。本人も各地を放浪するような生活を送り、その合間には科挙にも挑戦しましたが落第しています。同時代に生きたもう一人の大詩人・李白とはこの時期に出会い、意気投合したと伝わっています。
40代になってようやく官職を得た杜甫でしたが、そこに起こったのが唐王朝を揺るがす内乱「安史の乱」です。乱について詳しくは書きませんが、この乱に巻き込まれた杜甫は、しばらくの間長安で軟禁生活を送ることになりました。この時に作られた詩がかの「春望」です。「国破れて山河あり」のフレーズはあまりにも有名でしょう。
その後の杜甫の人生は、やはり不遇だったと言わざるを得ません。一時は高位の職についたものの左遷され、流浪の中で亡くなっています。
李白
長安元(701)〜宝応元(762)
杜甫が「詩聖」なら、李白は「詩仙」と称され、二人は中国史上最高の詩人とされます。
李白の出自は定かではありませんが、かれの幼少時代に一家は中国の西部、蜀の地に住み付いていたといいます。やがてふるさとを離れた李白は各地を放浪、40歳ごろには皇帝に仕える文人としての職を得ました。しかしながら李白は朝廷内部の空気に馴染めず、短期間で朝廷を去っています。上記の杜甫と親交をもったのは、この直後のことです。
その後、李白は皇帝の弟に仕えたりするのですが、この弟は皇帝との仲が悪く、これに巻き込まれて流刑になったりしています。この時期につくられた漢詩が「白髪三千丈」の詩で、罪を許されたときにつくられたのが「早發白帝城」の詩でした。
蘇軾
景祐3(1037).12.19〜建中靖国元(1101).7.28
漢詩人といえばやはり唐代に有名人が多く、上の二人もそうなのですが、蘇軾は少し時代の下った宋代の人物です。号を由来とする蘇東坡とも呼ばれます。
出身は上にも出てきた蜀の地でしたが、20歳の年に科挙に及第し、官僚となります。
しかし官僚としてのかれの道のりは決して順調なものではありませんでした。当時の宋は混乱・改革の時代であり、蘇軾はこの改革にまつわる政治的対立に敗れて左遷されます。この左遷時代につくられた漢詩が、蘇軾の最高傑作とも言われる「赤壁賦」でした。
その後、蘇軾は中央政界の力関係の変化に伴って再び復活、高位に昇るのですが、またも政争によって左遷されます。しかし中央の情勢がふたたび変化するとかれは許され、左遷先の海南島から都へと旅立ちます。しかしこのとき、蘇軾はもはや60代半ば。旅の途中でその浮沈の激しかった生涯を閉じています。
ちなみにこの蘇軾には、上記「赤壁賦」よりずっと知られている詩があります。「春夜」という詩で、「春宵一刻値千金」と言われればピンとくる方も多いでしょう。春の宵のひとときは千金にも値する...かれの人柄がくっきり見えてくるようなフレーズではありませんか。
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