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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


1月号 2016年1月31日更新

【今月の歴史人物】
苦難の画家
狩野芳崖
文政111(1828).1.13〜1888.11.5


今月号のイラスト 狩野芳崖◆絵で食うのが可能な方がいい
(C) イラストレーション:結木さくら

1月の主な誕生人物
01日 豊臣秀吉/安土桃山時代の武将
01日 フレイザー/人類学者。古典学者
01日 クーベルタン/教育者
02日 道元/鎌倉時代の僧
03日 加藤高明/政治家
03日 キケロ/哲学者、政治家
03日 小林一三/実業家
04日 グリム(ヤーコブ)/童話集成家、言語学者
05日 夏目漱石/小説家
06日 ジャンヌダルク/救国の少女
06日 シュリーマン/考古学者
07日 グレゴリウス十三世/ローマ法王
08日 徳川綱吉/江戸幕府5代将軍
08日 堀口大学/詩人、翻訳家
09日 ニクソン/政治家
09日 チャペック/小説家、劇作家
09日 ボーボワール/小説家、評論家
10日 鈴木正三/安土桃山〜江戸時代の武将、僧
10日 高山樗牛/評論家
10日 嶋村抱月/評論家
11日 伊能忠敬/江戸時代の地図作成家
12日 ペスタロッチ/教育者
13日 狩野芳崖/画家
13日 ベルツ/医師
14日 シュバイツァー/医者、神学者
14日 三島由紀夫/小説家
15日 モリエール/劇作家
15日 西條八十/詩人
16日 葛西善蔵/小説家
16日 鳥羽天皇/第74代天皇
16日 伊藤整/小説家、評論家
17日 ロイドジョージ/政治家
18日 モンテスキュー/法学者
19日 森鴎外/小説家
19日 コント/哲学者
19日 ポー/小説家
19日 セザンヌ/画家
20日 岡田啓介/政治家、軍人
21日 上杉謙信/戦国時代の武将
22日 大塩平八郎/江戸時代の儒者、武士
22日 ベーコン/哲学者
23日 マネ/画家
23日 スタンダール/小説家
23日 湯川秀樹/科学者
24日 フリードリヒ大王/プロシア王
24日 ボーマルシェ/劇作家
25日 ボイル/化学者、物理学者
25日 ラグランジュ/数学者
25日 御木本幸吉/実業家
25日 徳富蘇峰/ジャーナリスト
26日 マッカーサー/軍人
27日 モーツァルト/作曲家
27日 前田青邨/画家
28日 スタンリー/探検家
29日 ベルヌーイ(ダニエル)/数学者
29日 チェーホフ/小説家、劇作家
29日 ロラン/小説家、劇作家
30日 勝海舟/江戸時代の幕臣
30日 ルーズベルト(フランクリン)/政治家
31日 シューベルト/作曲家

幕末から明治初期にかけて、新時代の荒波を受け、それまで受け継がれてきた伝統的な絵画ジャンルは大変な苦難を味わいました。その時代を生き、伝統的な絵画が近代日本画として確立する過程で、大きな役割を果たしたのが、今月ご紹介する狩野芳崖です。

長州藩の支藩に長府藩というのがありますが、狩野芳崖はそこの絵師の家に生まれました。狩野というくらいですから、かの絵師の一大流派・狩野派の家ということですが、弟子の血筋で、本家よりはずいぶん格下です。

芳崖は少年期から画才豊かで、そのころの作品もいくつも残っています。

18歳の年、芳崖は江戸の狩野勝川院雅信(しょうせんいんただのぶ)に入門します。雅信は代々幕府の御用絵師をつとめた名門の絵師。芳崖はまさに狩野派本流の技術に触れることになったわけです。

芳崖はすぐに頭角をあらわし、わずか数年で弟子頭にまでなります。芳崖という人物は大変気の強い性格だったらしく、この弟子時代も師匠とたびたび衝突し、技法について注意されたときは「師匠は絵のことをご存知でない」と言った、というエピソードが伝わっています。ちなみに、この勝川院雅信の門下に同日入門した橋本雅邦で、二人は生涯の盟友となります。両者はのちに近代日本画の基礎を作り上げることとなり、門下でも龍虎と呼ばれるほど秀でていたと伝わります。

さて、雅信のもとで修行を終えると、芳崖は長府藩の御用絵師として、江戸と長府を往復しつつ、精力的に画作をおこないます。29歳の年には結婚もしました。しかし、時代は幕末・維新のとき。その波は、絵画の世界にも押し寄せ、芳崖の運命を変えてゆくのです。

明治維新が成り、新政府が立ち上がると、従来の幕藩体制は崩壊しました。そのため、藩によって禄を支給されていた芳崖の家も、収入がなくなってしまいます。当時の元・武士階級の多くがそうであったように、芳崖も地元でさまざまな商売に手を出しますが、ことごとくうまくいきません。もちろん絵は描き続けていたのですが、当時の空気からいって、芳崖の描く伝統絵画に人気のあるはずもありません。絵画もだめ、商売もだめで、芳崖は大変な苦労を味わうことになりました。これが明治のはじめ、芳崖40代のころのことです。

このままではどうにもならぬ、ということで、友人の勧めもあり、芳崖は東京へと出ることにしました。しかしながらそこでも稼ぐことはできず、輸出業者に雇われて陶磁器の下絵を描く、といった仕事でようやくわずかな稼ぎを得る始末でした。

しかし、そんな芳崖にもいよいよ転機が訪れます。同門の橋本雅邦が、島津家の依頼を芳崖に紹介し、それによって3年間、島津家から給料をもらって画業に専念することになったのです。芳崖、51歳の年のことでした。

わずか3年ではありましたが安定収入を得た芳崖は、ここから運が向いてゆきます。このころから日本画の復興機運が高まり、54歳の年には内国絵画共進会というコンクールが開かれます。芳崖の受賞はならなかったものの、日本画の価値を見出し、日本画の復興をリードしていた外国人・フェノロサにその作品を評価されます。フェノロサは、近代の日本画を作り上げるのは芳崖以外にないと見込み、芳崖を力強く支援します。それを受けて芳崖は次々と作品を発表します。これによって芳崖は高く評価されることとなるのです。

その後、芳崖は当時の日本画界を引っ張る存在として活躍し、60歳の年には、橋本雅邦などと共に東京美術学校(のちの東京藝術大学)の教授に任じられました。しかし、苦労した時代にかかった肺の病のため、その開校を見ることなくこの世を去るのです。近代初期日本画の金字塔とも言われる「非母観音図」を書き上げた直後のことでした。

 



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