幕末から明治初期にかけて、新時代の荒波を受け、それまで受け継がれてきた伝統的な絵画ジャンルは大変な苦難を味わいました。その時代を生き、伝統的な絵画が近代日本画として確立する過程で、大きな役割を果たしたのが、今月ご紹介する狩野芳崖です。
長州藩の支藩に長府藩というのがありますが、狩野芳崖はそこの絵師の家に生まれました。狩野というくらいですから、かの絵師の一大流派・狩野派の家ということですが、弟子の血筋で、本家よりはずいぶん格下です。
芳崖は少年期から画才豊かで、そのころの作品もいくつも残っています。
18歳の年、芳崖は江戸の狩野勝川院雅信(しょうせんいんただのぶ)に入門します。雅信は代々幕府の御用絵師をつとめた名門の絵師。芳崖はまさに狩野派本流の技術に触れることになったわけです。
芳崖はすぐに頭角をあらわし、わずか数年で弟子頭にまでなります。芳崖という人物は大変気の強い性格だったらしく、この弟子時代も師匠とたびたび衝突し、技法について注意されたときは「師匠は絵のことをご存知でない」と言った、というエピソードが伝わっています。ちなみに、この勝川院雅信の門下に同日入門した橋本雅邦で、二人は生涯の盟友となります。両者はのちに近代日本画の基礎を作り上げることとなり、門下でも龍虎と呼ばれるほど秀でていたと伝わります。
さて、雅信のもとで修行を終えると、芳崖は長府藩の御用絵師として、江戸と長府を往復しつつ、精力的に画作をおこないます。29歳の年には結婚もしました。しかし、時代は幕末・維新のとき。その波は、絵画の世界にも押し寄せ、芳崖の運命を変えてゆくのです。
明治維新が成り、新政府が立ち上がると、従来の幕藩体制は崩壊しました。そのため、藩によって禄を支給されていた芳崖の家も、収入がなくなってしまいます。当時の元・武士階級の多くがそうであったように、芳崖も地元でさまざまな商売に手を出しますが、ことごとくうまくいきません。もちろん絵は描き続けていたのですが、当時の空気からいって、芳崖の描く伝統絵画に人気のあるはずもありません。絵画もだめ、商売もだめで、芳崖は大変な苦労を味わうことになりました。これが明治のはじめ、芳崖40代のころのことです。
このままではどうにもならぬ、ということで、友人の勧めもあり、芳崖は東京へと出ることにしました。しかしながらそこでも稼ぐことはできず、輸出業者に雇われて陶磁器の下絵を描く、といった仕事でようやくわずかな稼ぎを得る始末でした。
しかし、そんな芳崖にもいよいよ転機が訪れます。同門の橋本雅邦が、島津家の依頼を芳崖に紹介し、それによって3年間、島津家から給料をもらって画業に専念することになったのです。芳崖、51歳の年のことでした。
わずか3年ではありましたが安定収入を得た芳崖は、ここから運が向いてゆきます。このころから日本画の復興機運が高まり、54歳の年には内国絵画共進会というコンクールが開かれます。芳崖の受賞はならなかったものの、日本画の価値を見出し、日本画の復興をリードしていた外国人・フェノロサにその作品を評価されます。フェノロサは、近代の日本画を作り上げるのは芳崖以外にないと見込み、芳崖を力強く支援します。それを受けて芳崖は次々と作品を発表します。これによって芳崖は高く評価されることとなるのです。
その後、芳崖は当時の日本画界を引っ張る存在として活躍し、60歳の年には、橋本雅邦などと共に東京美術学校(のちの東京藝術大学)の教授に任じられました。しかし、苦労した時代にかかった肺の病のため、その開校を見ることなくこの世を去るのです。近代初期日本画の金字塔とも言われる「非母観音図」を書き上げた直後のことでした。
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