「空を飛ぶ」。この単純にして難しい夢の実現に向け、歴史人物たちはさまざまな努力を重ねました。今月は、かのライト兄弟の兄・ウィルバー・ライトの誕生日にちなみ、飛行の研究によって歴史に名を残した人々を何人かご紹介しましょう。
モンゴルフィエ兄弟
1740〜1810(兄ジョゼフ)
1745〜1799(弟ジャック)
フランス南部で製紙業をいとなむ家に生まれた、兄ジョゼフ・ミシェルと弟ジャック・エティエンヌの兄弟です。かれらは焚き火をしていたときに起こった上昇気流に着目し、熱気球を着想したとされています。かれらの飛行実験は、ヴェルサイユ宮殿で、王族を前にしておこなわれた華々しいものでした。動物を乗せたこの実験は大成功をおさめました。そして、いよいよ有人での飛行がおこなわれたのは1783年のこと。まずは地上から綱を引いた状態での飛行に成功し、そのひと月後には綱のない状態での飛行をおこないました。気球は1000m程度の高さまで上昇し、その後、無事着陸するという成功をおさめました。
ケイリー
(1773〜1857)
ケイリーはイギリスの学者で、飛行にかんする研究の先駆者とされます。かれは飛行機に働く物理的な力を理論的に考察し、現代の飛行機に通ずる、主翼と尾翼を持ったグライダーを構想しました。この構想をもとにケイリーは実際のグライダーを製作し、滑空飛行に成功します。この飛行については細かいことは不明なのですが、少年を搭乗者とし、1840年代ごろにおこなわれたらしいものです。さらに1853年には100mを超える滑空飛行に成功し、このときは大人の搭乗者でした。
リリエンタール
(1848〜1896)
ドイツの発明家、リリエンタールはまさに飛行研究に生涯を捧げた人物です。鳥の飛行に惹かれ、人間の飛行についての研究をはじめたリリエンタールは、2000回にもおよぶ実験をおこないながら、グライダーの開発を進めてゆきました。その研究手法と成果は、のちの開発者たちにも影響を与えています。
数年にわたる試行錯誤の繰り返しにより、かれのグライダーはおよそ250mもの滑空飛行に成功しましたが、その最期も墜落による事故死でした。かれの業績は当時から欧米においては有名でした。その死は各方面に伝わり、ライト兄弟もかれの死亡をきいて、飛行機開発を進展させることを決意したといいます。
ライト兄弟
ご存知、飛行機の発明者ライト兄弟は、アメリカの聖職者の家に生まれました。長じてのち自転車屋を開業し、成功しました。
当時は飛行機の開発は夢であり、リリエンタールなどの先駆者がようやくグライダーによる滑空技術を確立させようとしていたところでした。ライト兄弟もリリエンタールの業績、そして彼の死に影響を受け、有人動力飛行の夢を追うことを決意します。かれらはリリエンタール流に多くの飛行実験、操縦訓練をおこない、ついに飛行機「ライトフライヤー」号を完成させます。ライトフライヤーによる飛行実験は1903年に行われ、最長で59秒、260mの飛行に成功しました。この飛行は、有人かつ動力(エンジン)を用い、操縦可能な飛行だったという点でひじょうに画期的なものでした。
しかし、意外にも兄弟のその後はけっして光り輝くものではありませんでした。世間は思ったほど反応せず、特許等の問題でライバルたちからは足を引っ張られました。その結果、かれらは飛行機の開発競争にはついていけなくなってしまいます。ライト兄弟の業績がしっかりと認められたのは、飛行実験から数十年後、20世紀も半ばのことでした。
浮田幸吉
1757〜1847ごろ
最後に少々変り種の人物をご紹介しましょう。江戸時代中後期の人物で、浮田幸吉。備前(現在の岡山)の表具師でした。かれはその職人技術を用いて翼を作り、橋の上から跳び、飛行を試みたのです。このとき、そのまま川に墜落したとも、わずかながら滑空したとも伝えられますが、はっきりしたことはわかりません。しかし、その行為が人々を騒がせたとされ、所払い(追放)の罰を受けたといいますから、やはり実験があったことは確かなようです。もし成功していたのなら、上記の人物たちよりかなり早いのですが、どうでしょうか。
ちなみに、その後、幸吉は駿河(現在の静岡県)に移住し、長寿を保ちました。
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