9月の22日、「応天門の変」の犯人とされた伴善男が流罪となりました。今月はそれにちなみ、平安時代の事件についていくつかご紹介しましょう。平安時代は公家の時代。その末期こそ直接的な武力を用いた事件、乱が多く発生しますが、それまでは事件と言えば陰謀めいた内容が多かったのです。
応天門の変
貞観8(866)年に起こったのが、応天門の変です。平安京には、官庁が集中する区域である大内裏が北方にあり、大内裏の中には朝堂院という政務の中枢施設がありました。応天門はその正門にあたります。応天門の変とは、この応天門が放火されるという大事件をきっかけに起こった政変でした。
応天門が放火された際、犯人と目されたのは時の左大臣・源信(みなもとのまこと)でした。源信を告発したのは大納言・伴善男。伴善男は源信と仲が悪く、そのために告発したとされます。
この告発を受け、源信は屋敷を取り囲まれます。しかし、逮捕される直前、当時の太政大臣・藤原良房が天皇を説得し、かれをかばいました。これによって源信は無実となります。
しかし事件はこれでは終わりませんでした。大宅鷹取という役人が、火の出る直前の応天門から、伴善男とその子・中庸(なかつね)、さらに紀豊城(きのとよき)という人物が走り去るのを見た、と密告したのです。そして伴善男は厳しい取調べを受け、ついに放火を自白します。これにより、伴善男はもちろん、伴氏、そして紀氏の有力者の多くが処罰されました。
事件の結果、伴氏、紀氏の権力はほぼなくなり、藤原氏がその権力を大きく伸ばすこととなります。藤原良房は事件をきっかけに、皇族出身者以外では初となる摂政の位にのぼり、その後の藤原氏摂関政治の基礎を築きました。
応天門放火の真犯人は未だによく分かっていません。事件をきっかけに権力を伸ばそうとした伴善男が失敗した事件だとも、そもそもはじめから裏で藤原氏が画策した陰謀事件だとも言われますが、真相は闇の中です。
承和の変
承和9(842)年に起こった大事件です。この事件にもさきほど登場した藤原良房が絡んでいます。
承和の変は、端的に言えば、皇位継承をめぐる対立から起こった政変です。平安時代の初期の天皇は、嵯峨天皇、淳和天皇、仁明天皇の順で即位しましたが、この中でも嵯峨天皇の力は強く、退位しても上皇として強い政治力を発揮していました。
仁明天皇の時代、嵯峨上皇は恒貞親王を皇太子とします。恒貞親王は淳和上皇の子で、嵯峨天皇にとっては孫にあたります。そして、これが変の火種となります。
仁明天皇には中宮(=天皇の妻)がおり、それは藤原良房の妹・藤原順子(ふじわらののぶこ)でした。この順子に皇子が生まれます。これが道康親王で、当然、良房は道康親王を次の天皇にしたいと考えます。
これに危機感を持ったのが伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)で、かれらは恒貞親王を連れ、密かに東国へと
行こうとするのです。しかしながら計画は漏れ、良房、さらには仁明天皇に伝わります。
そんな中、嵯峨上皇が崩御します。その直後、伴健岑と橘逸勢は逮捕されます。
結果、伴健岑と橘逸勢は流罪。名族・伴氏と橘氏は大きく力を削がれ、また、恒貞親王は皇太子を廃されました。その他、親王に仕えた多くの人々が処罰されます。一方、藤原良房は昇進を遂げ、政界に確かな基盤を築くこととなります。そして道康親王は皇太子の位につき、のちに即位し、文徳天皇となるのです。
薬子の変
応天門の変から遡ることおよそ55年、大同5(810)年に起こった政変です。ことの始まりは、平安京遷都をおこなった桓武天皇の子、平城天皇が病気のために譲位を決断したことでした。平城天皇の寵愛を受け、朝廷における権力をほしいままにしていた藤原薬子(ふじわらのくすこ)とその兄・藤原仲成は譲位に反対しますが、結局、平城天皇の弟である嵯峨天皇が皇位を継承します。しかし薬子と仲成は諦めませんでした。二人は平城上皇の重祚(退位後、再び天皇となること)をねらうのです。
平城上皇も、譲位したとはいえ、全く表舞台から引いてしまうことはしませんでした。政治の面で何かと嵯峨天皇と対立し、ついには前の都である平城京への遷都をも計画します。むろん、薬子と仲成もこれに協力します。
しかしこの計画が完遂することはありませんでした。天皇は仲成を逮捕・処刑し、平城上皇は薬子を伴って東国へ向かおうとするものの失敗します。上皇は出家し、薬子は毒を仰いで自殺。こうして変は終息するのです。
藤原薬子、仲成は、藤原氏の中でも式家という系統の出身です。変の起こったころは、式家と、もう一つ、北家という系統が強力で、この両系統が対立していたのですが、変の結果、藤原式家は没落し、藤原北家が勢力を大きく伸ばしました。この北家がのちに摂関政治の全盛期を現出する系統であり、上で出てきた良房も藤原北家の人物です。
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