今回取り上げる人物は、江戸後期の老中・水野忠邦です。江戸の三大改革の最後を飾る「天保の改革」を行った人物として有名です。この改革とともに、その前後の忠邦の人生も見てみることにしましょう。
昇進したい!
水野忠邦は寛政6(1794)年6月23日、江戸で誕生しました。父親は唐津藩の藩主・水野忠光(ただあきら)。唐津藩というのは現在の佐賀県あたりです。次男でしたが、長男が早世したために跡継ぎとなり、やがて唐津の藩主となりました。
さて、唐津藩主となった忠邦でしたが、しばらくして唐津藩から浜松藩の藩主へと国替え(転封)されています。この国替えには少々奇妙な点があります。
水野家はもともと名のある家で、唐津藩もそれなりに豊かな藩でした。これに対して浜松藩は大して豊かな藩ではなかったのです。しかもこの国替えは、ミスなどによる処罰ではありませんでした。それどころか、忠邦自身の希望だったと伝わっています。この奇妙とも言える国替えには、もちろん理由がありました。
忠邦は、中央(幕政)での昇進願望が強い人物だったといいます。当時の忠邦は、中央の「奏者番」という役職に就いていましたが、忠邦の目標はもっと上でした。しかし、それには障害があったのです。それはまさに、唐津藩の藩主であるという自らの立場でした。実は、唐津藩というのは代々長崎警備という役目を幕府から負っており、そのために藩主は中央での昇進を望めないという慣例があったのです。そこで忠邦は半ば自らが希望するような形で浜松へと移った、というわけです。自らの野望のために藩すら捨てた、と言ったところでしょうか?なお、忠邦は、この国替えとほぼ同時に寺社奉行へと昇進しています。
その後も忠邦は、順調に昇進を重ねました。大坂城代や京都所司代という重職を歴任し、やがて幕府政治の責任者である老中になるのです。老中となってからも忠邦は実績を重ね、四十代の半ば頃にはその老中の中でもトップにあたる地位へと上り詰めています。
天保の改革
いよいよ幕閣のトップと言っていい地位に上った忠邦は、いわゆる「大御所政治」(引退した将軍が政務を執る体制)を敷いていた十一代将軍・徳川家斉の死去をきっかけに、幕政改革に乗り出します。これが有名な「天保の改革」です。以下で天保の改革の要点をご紹介します。
●全体方針
天保の改革とは、先の幕政改革、享保の改革と寛政の改革の精神に立ち戻ることを柱としていました。すなわち、質素・倹約や、農業中心の世の中を理想とし、幕権の強化をはかるものです。
●人事
改革のためにまず手がつけられたのは人事の刷新でした。大御所政治の時代までに政治は乱れ、賄賂が横行していたために、忠邦はそれまでの重臣達を排除します。代わりに重用したのが鳥居耀蔵をはじめとする忠邦の腹心たちでした。この鳥居耀蔵という人物は、学校で習う歴史ではあまりクローズアップされませんが、歴史小説や時代小説などには時々顔を出す人物で、改革の対立者を徹底的に弾圧し、潰してしまう意地の悪い人物として描かれます。物語の中の鳥居蔵はあくまで創作ではあるのですが、天保の改革には実際そのような側面があることを示しているとは言えるでしょう。
ちなみに、「人物伝」で以前ご紹介した川路聖謨も、天保の改革で取り立てられた人材の一人です。
●軍事・外交
外交面で行われた大きな政策は「天保の薪水給与令」です。アヘン戦争で清が敗れたという報に接し、それまで行われていた異国船の打ち払いを改め、燃料と水を補給することを決定するものです。また、代官の江川英龍や砲術家の高島秋帆に命じ、西洋式の砲術導入も試みています。
●経済
天保の改革では、経済面での改革もかなり行われました。いや、改革というより再統制と言った方がいいかもしれません。疲弊していた幕府財政との絡みもあり、忠邦は経済に対して厳しい締め付けを行います。質素・倹約を奨励し、芸能や出版を厳しく制限しました。贅沢品に対する締め付けも強化されました。さらに、人返し令を発して、農民の江戸への移住を禁じます。農村に人を集め、農村の復興をはかろうとしたのです。また、当時の流通を仕切っていた株仲間の解散も命じました。株仲間による経済の独占を改めさせ、経済の自由化をめざしたのです。
もう一つ重要な政策として「上知令」というものも発されました。これは、主に大坂や京都などの要地を対象とし、付近の大名領などを幕府領へと編入するという法令でした。幕府の権力・財政基盤を強化するという目的があったようです。
改革の失敗
さて、これらの政策は、細かく見れば上手く行った部分もありましたが、全体として大失敗してしまいます。特に経済分野の成果は惨憺たるもの。質素・倹約を旨とする生活統制は庶民の不満を招き、人返し令は守られず、株仲間を解散したことで物流ががたがたになるというありさまでした。
中でもとどめになったのが「上知令」でした。とりわけ土地を取り上げられる羽目に陥った大名らの猛反発に遭い、法令は結局取りやめとなります。これをきっかけに忠邦の幕府内での力は急速に弱まり、ついに老中の座を降りることになってしまうのです。天保の改革が始まって、わずか二年半しか経っていませんでした。
ただし、その後しばらくして、忠邦は老中に復帰します。海外情勢が緊迫し、忠邦の力を必要としたためでしたが、この時の忠邦にもう改革当時の元気はありませんでした。忠邦は一年経たないうちに老中を再び退いてしまいます。その後、改革時代の不正のために隠居を命じられ、そのままこの世を去りました。不遇な晩年だったと言えるでしょう。
江戸時代のやり方が通じない
天保の改革は失敗でした。それは忠邦の強権的な政治のせいであったでしょうが、それと同時に、時代の変化という理由も大きかったでしょう。江戸期前半と比べ、経済状況も外交状況も大きく様変わりしていました。そんな中で復古をめざした忠邦の政治は、単に日本の成長を抑え付けるだけのものでしかなかったのです。
「江戸時代のやり方」が全く通じなかった、これは示唆的でした。忠邦が表舞台から去ると、日本の国はいよいよはっきりと変化に向けて動き出します。ペリーが来航し、開国が決定され、江戸幕府が崩壊する。そういう、封建時代の終焉期へと、日本の歴史が舵を切るのです。
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