江戸時代に生まれ、後世にも大きな影響を与えた学問「国学」。この国学の発展に最大級の貢献をした四人の学者(荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤、本居宣長)を「国学の四大人」などと呼びます。今月ご紹介するのはその中の一人、賀茂真淵です。
その前半生
賀茂真淵は、元禄10(1697)年の3月4日、遠江国浜松で誕生しました。実家は京都・賀茂神社の流れを受け継ぐ神官の家でした。神官として由緒正しい家柄です。真淵の実家も神官をつとめていましたが、同時に農業も行っていました。
後に国学者として鳴らす真淵ですが、やはり少年期から国学とは縁のふかい人生でした。真淵が本格的に学問に触れるのは11歳の時でしたが、入門したのは地元の国学者である杉浦国頭(くにあきら)でした。杉浦国頭は上で触れた国学の大物・荷田春満の弟子。さらにその妻・真崎は荷田春満の姪で、真淵は彼女からも読み書きなどを教わっています。
荷田春満は上記「四大人」のトップにあげられていることからも分かるように、国学の黎明期に大きな業績を上げた人物。真淵も二十代半ばの頃、杉浦家の歌会において春満と実際に会うことがかなっています。
ところで、真淵は末っ子で、実生活では大変に苦労しています。幼い頃には養子生活を経験し、長じてからも婿養子として他家に入るのですが、最初の妻とは死別しました。その後、別の家にまた婿養子として入ります。
この時入った家は本陣という上級の宿屋でした。本陣というのは仕事の責任も重く、また農村育ちで学者肌の真淵には合わない面も多かったのでしょう。結局36歳の時、ついに真淵は家を出て京に向かいました。京に到着した真淵は、荷田春満のもとに入門しました。
学者の道を歩く
京での真淵は、当時最高とも言える師のもとで学問に励みました。しかし、春満もこの時すでに60代。およそ3年後に亡くなってしまい、真淵は江戸へと活動の拠点を移します。
真淵は江戸においてまた大物と知り合います。と言っても今度は学者ではありません。殿様です。徳川御三卿の一つ・田安家の田安宗武でした。
御三卿というのは徳川将軍家の血を受け継ぐ分家で、かの八代将軍・徳川吉宗が自分の息子らに田安家と一橋家を立てさせたのがその始まりです。のちに清水家を加え、三家体制が確立されました。宗武は田安家の初代で、すなわち吉宗の息子にあたります。
この田安宗武という殿様は、非常な和歌の愛好家で、好きなだけではなくその腕前も確かでした。宗武のもとで真淵は和歌の仕事を行い、やがて正式に召し抱えられることになります。
真淵の生涯において、宗武との出会いは大変に重い意味を持つと言われます。真淵の師である荷田春満は和歌の研究も行いましたが、どちらかというと史学や神道の方面にその本領があります。それに対し、宗武とのかかわりを通して開かれたのは和歌への目。真淵の中にこれら二つの武器が揃い、以後、国学者としての真淵の研究は厚みを増してゆきます。それは、国学という学問そのものの方向性が、とうとう定まったという意味でもありました。
真淵は田安家の学者としておよそ15年間を過ごしました。その後は研究活動と後進の育成に尽力し、明和6(1769)年、72歳でこの世を去りました。
真淵の門人たち
真淵には数多くの優秀な門人がいました。真淵は晩年、県居(あがたい)という号を用いたことから、かれらを「県門」とも呼びます。
県門で最大と言える人物は、やはり本居宣長でしょう。しかし、真淵は宣長に手取り足取り国学を教授したわけではありません。
田安家を辞して数年後、真淵は研究旅行で西日本を訪れました。その途上、伊勢松坂の宿屋に滞在していた真淵を、一人の学者が訪ねます。それこそが本居宣長でした。宣長は真淵に教えを請い、真淵はそれに応じました。
二人が顔を合わせたのは、ただこの一度だけだったと伝わっています。しかし二人の交流は手紙によって以後も続き、宣長が本格の国学者として歩むための大きな力となりました。
もう一人、おもしろい門人があります。それは、塙保己一という人物です。かれは盲目の学者でした。目の不自由な人が学問をするのは現代でさえ大変ですが、それを江戸時代に行ったという意味で特筆すべき人物です。しかも保己一はそれだけの人物ではありません。学者としても、史上に燦然と輝く実績を残しています。それは「群書類従」の編纂です。「群書類従」はそれまでの日本の文学や史書を集積した書物です。大変価値の高い書物で、江戸期どころではなく、現在においても国文学、史学研究には欠かせない書物として活用されています。
この塙保己一が真淵に入門したのは明和6年といいますから、まさに真淵の亡くなる年です。教えを受けたのは1年にも満たない期間ということになりますが、それでも「六国史」などの史書についての知識を受けたといいます。
その他、門下の属性が多様で、女流の門人なども多かったのは県門の大きな特徴とされます。真淵がすぐれた学者であった理由が、こんなところに示されているような気がします。
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