以前、徳川家康の若年時代をご紹介しました。今月はその続編として、立派な大名となり、やがては天下を掴んだ家康の後半生をご紹介しましょう。
信長死す
今回の話は、織田信長が本能寺の変において世を去った直後から始まります。変の起こったとき、家康はわずかな供を連れただけの状態で、大坂の堺に滞在していました。そんなときに突如信長がいなくなってしまったわけです。戦国の世に秩序をもたらしていた強力な支配者が、消えてしまったということです。
と、なると、信長の同盟者という立場だった家康はどうなるか。突如、いつ命を狙われてもおかしくない状態に放り込まれたといってよいでしょう。
しかし、ここから家康は部下の助けを借りつつ、陸路と海路によって命からがら自領の三河へと帰還するのです。このあたりの経過は、「本能寺の変」の項でも触れました。
大大名へ
帰還後、家康は国取りに動きます。舞台になったのは甲斐や信濃など、かつての武田氏の領地。武田氏の滅亡後、織田領となっていました。しかし信長が死んだため、そこを巡って関東の北条氏と、家康の間で争いが起こったわけです。
この争い、結論から言うと、衝突の直前で和睦となりました。徳川と北条で領地を分け合うことになったのです。こうして家康はもともと保有していた駿河・遠江・三河のほか、武田遺領である甲斐と信濃を取ることになりました。名実ともに大大名になったと言ってよいでしょう。
秀吉との駆け引き
本能寺の変の後、天下統一の覇業を受け継ぐことになったのは、ご存知、羽柴(豊臣)秀吉。家康はこの秀吉とも鋭く対立することになります。そのピークが、よく知られる「小牧・長久手の戦い」です。
尾張国で起こったこの戦い、小規模な衝突を繰り返し、にらみ合い、やがて両軍和睦という形で決着しました。対立者も多かった織田家中を凄まじい勢いで掌握し、天下に最も近い男となった秀吉。その秀吉と堂々渡り合い、引き分けたのですから、この時点における家康の力、存在の特別さがうかがい知れます。
さて、和睦後、そんな家康を秀吉はどう扱ったでしょうか。秀吉の選んだ道は、家康を叩き潰すのではなく、自らの味方に引き入れるという道でした。
とはいえ、家康はそれにたやすく応じるわけもありません。家康は決して秀吉に会おうとはしませんでした。会見イコール臣従となるのは明白だったからです。しかし秀吉は、自らの妹を家康の妻として差し出すという強手を放ちます。この手は家康に対して確かに効果がありました。身内まで差し出されては断るのも難しい、家康は彼女を妻とするのです。
秀吉のアピールはまだ続きます。なんと秀吉はこのあと、自らの母までも家康のもとに差し出すのです。ここに至り、家康は完全に折れました。家康は重い腰を上げ、秀吉の待つ大坂城へと出発したのでした。
臣従、そして将軍へ
大坂城において家康は秀吉と会い、臣従を誓いました。その後、家康は豊臣家臣団の中でもひとつ別格のような存在感を持ちながら活動してゆきます。
なお、家康は後年「江戸幕府」をひらきますが、家康がこの江戸を本拠としたのは、この秀吉家臣の時代です。秀吉の北条氏征伐ののち、家康はその空いた領地へと移動させられたのです。数字の上では大幅な加増であったものの、当時の江戸は大して開拓もされておらず、ただ平らなだけの田舎の土地でした。そんな土地への移動を命ぜられ、守り続けてきた旧領を去るときの家康の心境はどのようなものだったでしょうか。
さて、やがて秀吉が亡くなります。政権の最重要人物たち、いわゆる五大老の筆頭格であった家康は、秀吉がいなくなると、まるで政権に揺さぶりをかけるような行動をとり始めます。例えば、秀吉が禁じていた大名家同士の結婚を平気で行ったりしました。
むろん、そんな家康の行動に、秀吉にずっと仕えてきた家臣たちは反感を抱きます。その中心となったのが石田三成でした。そして、家康と三成は全国の大名をそれぞれの勢力に取り込み、ついに正面衝突します。これが「天下分け目」とも言われる関ヶ原の戦いです。家康はこの大勝負に勝利。その後、慶長8(1603)年、家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。家康、満60歳の春のことです。
もう一山
将軍となった家康。普通ならここで天下取りは完遂といったところですが、家康はもう一山越えなければなりませんでした。それは豊臣氏の処遇。関ヶ原の戦いの後、豊臣氏は地位的にはただの大名になっていましたが、それでもその権威、力は大きく、家康にとっては悩みの種でした。
ちなみに家康は将軍となってわずか2年で子の秀忠に将軍職を譲り、自らは「大御所」として幕政をとりしきるようになっています。「徳川の世」の地固めを着々と進めていたわけです。この情勢の中、豊臣氏とその恩顧の大名たちは徳川に反感を強めます。一方で家康は、豊臣を潰すための策謀をめぐらしてゆくのです。
両者正面衝突の引き金になったのが有名な「方広寺鐘銘事件」です。豊臣氏が再建した方広寺の鐘に書かれた文字に「国家安康」「君臣豊楽」というものがありましたが、これが、家康の名を割り、豊臣氏の繁栄を願ったものであるとされました。これが問題になったのです。これがわざとでっちあげた難癖だったかどうかは諸説ありますが、ともかくこの事件がきっかけになり、徳川と豊臣は直接激突します。大坂冬の陣と夏の陣です。この合戦に家康は勝ち、豊臣氏はついに滅亡しました。これで徳川に反抗する目立った勢力は、ひとまず日本から消え去ったのでした。
いよいよ成った天下統一。戦国の最後の勝利者となった家康でしたが、大坂の戦に勝ったその翌年、まるで自分の役割は終わったとでもいうように、この世を去るのです。73歳でした。家康の築いた江戸幕府はおよそ260年も続き、それは世界史上でも稀な長期安定の時代となりました。
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