幕末、ついに起こった新政府軍と旧幕府軍の戦い。それが戊辰戦争です。今回はこの戊辰戦争における最初の激突となった「鳥羽・伏見の戦い」についてご紹介しましょう。
幕府倒れ、慶喜立つ
まずは鳥羽・伏見の戦いに至るまでの流れをさらってみましょう。話は前年の10月からはじまります。このとき、十五代将軍・徳川慶喜による大政奉還が行われました。大政奉還とは、当時幕府が握っていた政権を朝廷へと返上すること。要するに、このとき260年余りの江戸幕府による政治が終わりを迎えたということです。
大政奉還にはいくつかのねらいがあったとされますが、それは、一つには幕府と朝廷の全面戦争の回避がありました。さらに、穏便に政権を返上することで、将軍や旧幕府勢力が政治的主導権を維持できるといった読みもあったとされます。
しかし、これらのねらいがツボにはまってしまうと、困るのは薩摩や長州といった討幕勢力です。旧権力を一掃し、自分たちが中心の政権をつくるという目標が崩れ去ってしまうからです。
そして12月、王政復古の大号令が発されます。これは幕府を廃止して、天皇中心の政権を作るという宣言なのですが、単なる宣言ではなく、倒幕派による「クーデター」の側面がありました。さらに倒幕派は徳川慶喜に対し「辞官納地」を迫りました。これは文字通り、官職を辞して領地を国に返納するということ。慶喜に対して丸裸になれといったも同然でした。
しかし慶喜もさるものです。かれはここで強硬な態度をとることなく大坂城へと引っ込み、慶喜寄りの諸藩等に働きかけました。結果的に、辞官納地と引き換えに、慶喜が新政権の中心に参画する流れが生まれることになります。倒幕派は大ピンチといったところでしょうか。
しかしそんな時、大事件が起こりました。江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件です。
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件
事件が起こったのは12月25日のことでした。倒幕派の中心であった薩摩藩はこのとき、江戸の藩邸において過激派を多数かくまっていました。薩摩藩はかれらに江戸の町で破壊や略奪などの騒乱行為をさせていたと言われます。こういった行為によって幕府を挑発し、戦争へと持ち込むのがねらいでした。
慶喜が大阪城にいたとき、幕府はついにこの挑発に乗ってしまったのです。幕府の部隊が、過激派の引渡しを求めて薩摩藩邸を取り囲み、ついには藩邸焼き討ちに及んだのでした。
この焼き討ち事件の影響は絶大でした。大坂の慶喜の周辺は沸き立ち、薩摩討つべしの声が高まりました。慶喜はそれを抑えきることができませんでした。
こうして慶応4(1868)年1月2日、大坂の旧幕府軍は京都に向けて進軍を開始します。薩長を中心とする倒幕派にとっては願ってもない展開だったことでしょう。逆に慶喜にとっては最悪の展開だったに違いありません。何しろ、正々堂々と新政権に参加する権利を、あと少しで獲得するところだったのですから。
戦いがはじまる
まず戦端が開かれたのは鳥羽においてです。進軍を続けていた旧幕府軍の一部が、新政府軍の一部に対して通行を求めたものの止められ、結果、衝突となりました。これが1月3日の夕刻のことでした。これをきっかけとして、伏見方面でも戦闘が開始されました。
これらの戦闘においては、装備や練度に勝る新政府軍が優勢に進めたものの、戦力としては旧幕府軍の方が圧倒的に上で、勝負が決するほどではありませんでした。しかし、翌4日には戦局を決定付けるようなできごとが起こります。
それは新政府軍に「錦旗」が与えられたことです。いわゆる錦の御旗で、朝廷の軍であることを示す旗です。これにより新政府軍は正式に「官軍」となり、旧幕府軍はあろうことか「賊軍」となってしまったのです。これによって新政府軍につく藩も増えたこともあり、以降の戦闘において、旧幕府軍は劣勢となります。
そして、とどめに起こったできごとが、総大将たる徳川慶喜の「逃亡」でした。慶喜が大坂城にいたことはすでに触れましたが、1月6日の夜、慶喜は城を密かに脱出し、江戸へと帰ってしまったのです。その理由ははっきりしていません。負け戦を確信したからとも、「朝廷の軍」相手に戦う気がなかったからとも言われます。
ともかく、ここで戦闘はストップ。鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わりました。このときの旧幕府軍の指揮官、兵たちの気持ちはいかなるものだったでしょうか。
軍事・政治の両面戦闘
これが戊辰戦争の発端、鳥羽・伏見の戦いの経過です。この戦いは、軍事的な戦いであると同時に、政治の戦いでもあったことがうかがえます。とりわけ効いたのが、慶喜の江戸帰還だったかもしれません。戦いの総大将が、理由はどうあれ突然戦場を離れてしまったこと。これでは、勝てる戦も勝てなくなります。戊辰戦争と言われる新政府軍と旧幕府軍の戦いはこのあともまだまだ続きますが、緒戦のこの出来事が暗示する通り、新政府軍の圧勝で終わることとなるのです。
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