江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜。この慶喜を最後に江戸幕府が消滅したことから「最後の将軍」とも呼ばれる人物です。
今回は、この徳川慶喜の生涯をご紹介いたします。
御三家から御三卿へ
徳川慶喜は、天保8(1837)年9月29日に江戸で誕生しました。父は水戸藩主・徳川斉昭。水戸徳川家は徳川の分家である「御三家」の一つで、将軍候補を出す資格もある名家です。ただし、七男だったため家を継ぐ可能性はほとんどゼロでした。
幼時の慶喜は大変聡明だったと伝わります。父の斉昭もそんな慶喜を可愛がっていましたが、慶喜10歳の頃、実家を出ることになりました。幕府の命で、御三卿の一つ、一橋家を継ぐことになったからです。御三卿というのは御三家と同じく、徳川の分家にあたります。御三家より格は落ちるものの、やはり将軍候補を出すこともできました。
ちなみに、当時の将軍は十二代の徳川家慶です。家慶は慶喜の聡明さを気に入っており、慶喜が一橋を継ぐにあたっては家慶の意向も大きかったと言われます。なお、慶喜が「慶喜」と名を改めたのはこの時期のこと。むろん、「慶」の一字は、家慶の「慶」を与えられたものでした。
将軍継嗣問題
慶喜が一橋家を継いでおよそ6年後。将軍・家慶が死去します。十三代将軍として後を継いだのは徳川家定でした(この家定の妻が「篤姫」の名で知られる天璋院です)。しかし家定は病弱で、子もありませんでした。そのため、次の将軍を誰にするかということが大きな問題となりました。これが、幕末期前半の政治を大きく揺るがした「将軍継嗣問題」です。
この時、次期将軍候補として名が上がったのが、紀伊徳川家出身の徳川慶福と、一橋家出身の一橋慶喜でした。一般に、慶福を推したグループを南紀派、慶喜を推したグループを一橋派と呼びます。南紀派には幕府重臣の井伊直弼などがつき、一橋派には慶喜の父である徳川斉昭らがつきました。
候補となった二人には、それぞれ有利な点、不利な点がありました。慶福のほうは現将軍・家定の従兄弟という血筋的有利さがあったものの、10代前半と非常に若かったのがネックでした。一方、慶喜は20歳過ぎと年齢的には適格。しかし、慶喜の実家である水戸徳川家は家定と血縁が遠く、そこが不利な点でした。
さらに事態を複雑にしたのが当時の政治状況でした。ちょうど幕府はアメリカとの条約締結問題を抱えていました。それが将軍継嗣問題と絡み、幕府内は激烈な政争の場となったのです。
しかしこの状況は、南紀派・井伊直弼が大老に就任すると一転しました。井伊はその権限によって条約の無勅許調印を行い、さらに、次期将軍を徳川慶福と決定してしまいました。そして、自らの方針に逆らう者をまとめて処罰したのです(安政の大獄)。処罰者には徳川斉昭や一橋慶喜までもが含まれていました。強権的という言葉ではおさまり切らない、破壊的とすら言える井伊のやり方でした。さすがにこの強引さは恨みを買い、水戸藩の浪士によって井伊が暗殺されてしまうわけです(桜田門外の変)。
幕府を支えて奔走
慶喜は安政の大獄により隠居・謹慎という処罰を受けましたが、桜田門外の変の後、許されました。まもなく慶喜は、将軍後見職という幕府の重職に就任します。なお、将軍位継承そのものは井伊の決定通り行われており、この時の将軍は十四代・家茂(慶福より改名)です。
将軍後見職に就いた慶喜は、政事総裁職に任命された松平慶永とともに幕政の改革に手をつけます。慶永は御三卿・田安家出身の人物で、将軍継嗣問題においては一橋派に属しました。
さて、改革を始めた慶喜ですが、聡明で知られただけあり、その手腕はなかなかだったようです。具体的には、各藩に重い負担としてのしかかっていた参勤交代の義務の緩和、尊王攘夷運動で混乱していた京都を統率する京都守護職の設置などを行っています。これら一連の改革を「文久の改革」といいます。
しかしその後、慶喜は将軍後見職を辞任します。直接のきっかけは、朝廷をサポートする「参予会議」の不調です。この会議は、急進的な攘夷派公卿や長州藩関係者が京都から追放されるという「八月十八日の政変」をきっかけに設置されていました。しかし、構成員である有力大名らの意見がまとまらなかったため消滅しました。
とはいえ、慶喜は参予会議の崩壊後も京都で政務をこなしました。この時期に行った主な仕事には、長州藩兵による京都襲撃事件「禁門の変」の処理、水戸藩士らの反乱事件「天狗党の乱」の処理、下関戦争に絡む欧米との戦後交渉、第二次長州征伐への対応などがあります。将軍後見職を辞任しても、慶喜の政治キャリアは萎むどころか、ますます重要な役割を担っていたことがわかります。
しかし、この時期、さらなる不幸が幕府を襲います。それは、将軍・徳川家茂の急死でした。
最後の将軍
家茂の死は病死だったとされますが、暗殺説も唱えられています。それほど急だったということです。その後継者には、当然のごとく慶喜の名が上がりました。
ところが慶喜は、将軍職の継承を渋ります。その理由ははっきりしませんが、あまりにも局面が難しく、トップより補佐としての方が仕事がやりやすいと考えたからとか、請われて就任した形を作ることで少しでも動きやすいようにしたとか言われています。
しかしほかに適当な人材がいるはずもなく、数か月を経て、結局慶喜は第十五代将軍となりました。それまでに徳川宗家の継承も行っており、とりあえずは充分な準備を行ったものと言えるでしょう。
将軍になった慶喜は、人事や軍制をはじめとする諸改革に着手します。しかし、幕府崩壊へ向かう時代の流れを押しとどめることはできませんでした。
慶応3(1867)年、慶喜は、政権を朝廷に返上する「大政奉還」を決断しました。そのままいけば薩摩藩や長州藩といった雄藩と、幕府の存亡を賭けて争うことになっていたでしょう。それを避け、後々も徳川家の影響力を維持するための策でした。
しかし、これで困ったのが、薩摩藩や長州藩を中心とする倒幕勢力です。彼らの目標は、幕府とは根本的に異なる、全く新しい政治システムの創設です。それには、一度幕府軍と戦って徹底的に叩き潰し、旧時代に区切りをつけることが重要でした。ことを中途半端に終わらせ、慶喜が新政府に居残ることになっては元の木阿弥なのです。
そこで彼らは、慶喜に辞官納地を命じました。つまり、慶喜が就いていた内大臣という官職を辞し、領地も返上せよということです。慶喜にとっては相当に過酷な命令です。
これに驚き、怒った幕臣たちはついに兵を挙げ、いよいよ新政府軍対旧幕府軍の戊辰戦争が始まります。
この時、慶喜は大坂にいました。ところが、緒戦の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、さっさと江戸に逃げ帰ってしまいました。新政府軍との戦争は、必ずしも慶喜の望むところではなかったと言われていますが、それにしても自分の将兵を見捨てて消えてしまったのですから、どうにも非常識な総大将と言わざるを得ません。これは、慶喜の生涯の中でも、特に意味不明の行動として議論の種になっています。
敗走後の慶喜は寛永寺に籠り、ただひたすら反省の態度を示しました。その甲斐あってか、命まで取られることはありませんでした。やがて慶喜の身柄は静岡に移され、そこで謹慎生活を送ることになります。
その後、幕府制度は完全に解体されました。源頼朝以来650年以上続いた武家政権も終焉し、徳川慶喜は文字通りの「最後の将軍」となったのです。
慶喜その後
徳川慶喜という人物に対する評価は難しいところがあります。難しい状況の幕府を支え、大政奉還によって新しい国への道筋をつけた名君だったとも、幕府の命運を尽きさせ、鳥羽伏見の戦で醜態を晒した暗君だったとも言われます。ただ、将軍位を退くまでの仕事ぶりを見れば、歴代将軍の中でもずば抜けて高い実務能力を持っていたのは間違いないでしょう。幕末の難しい状況を、最小限の犠牲で乗り切ったようにも思えます。
ところで、謹慎後の慶喜はどうしたでしょうか。実は、早くも明治2(1869)年に謹慎を解かれています。しかし、新政府に参加する希望はもはや抱いていなかったようで、写真や狩猟といった趣味に暮らす日々を送りました。1902年には公爵、貴族院議員にもなりました。亡くなったのは1913年11月22日のことです。
|